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COVID-19が加速する“受験戦士量産校”の没落

概要

 COVID-19の感染拡大により、これまで見えにくかった教育問題が一気に「見える化」し、教育改革の必然性や必要性に対する理解が容易になった感がある。そしてそれは、これまで積み上げられてきた改革を停滞させるどころか、むしろ加速する作用をもっており、いよいよ“受験戦士量産校”は没落の時を迎えると予想される。

COVID-19が加速する“受験戦士量産校”の没落
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はじめに

 近年、地域の疲弊や地域創生策を背景に、高校でも「地域人材を育成しよう」という気運が高まってきた。そして、統廃合の危機に瀕した過疎地の小規模校を中心に、具体化にむけた動きが起こった。それとは対照的に、徹底した管理統制によって生徒を点取りマシンに染め上げる“受験戦士量産校”では、分厚い壁が立ちはだかり、挑戦の芽が摘み取られる現場が大半だった。


 文部科学省が近年これほど力を入れても、あるいは、学校が所在する自治体が熱心に働きかけても、進学校の改革は遅々として進まなかった。

 

地域人材とは何か

 偏差値体制を覆せなかった一因として、そもそも「地域人材」とは何かを明確に定義できなかった点を指摘できる。となれば、それを既存の指導に割り込ませるべき必要性について校内的な理解を得る域まで及ばないのは当然だ。


 「地域人材」とは「地域の課題を発見・解決できる人材」と語られる場合が多いものの、これまで具体的なイメージは学校の内でも外でも鮮明には共有されてこなかった。


 ところが、COVID-19による突然の休校により、地域人材とは何かが鮮明になった。それは次の二つのニュースを対比すれば分かる。


 一つは「山梨県の中学校1年生が数百枚ものマスクを自作して寄付をした」というニュース(3月17日)。これは「いま身近な地域で何が必要とされているのか?」「自分はどう貢献できるか?」を考えて実践した典型例といえよう。地域課題を発見し、解決に貢献したのだ。


 もう一つは「臨時休校で暇を持て余した高校生が渋谷に繰り出し、カラオケを楽しんでいた」というニュース(3月初旬)。それは収まるどころか、東京五輪の延期や首都封鎖の可能性が発表され、首都圏の知事らが外出や移動の自粛を要請した週末、多くの若者が熱海に繰り出していたというニュースさえあった(3月28日)。これらは、もしかしたら「経済の落ち込みを防ごうと、万全の対策を施した上での行動」だった可能性もあるが、そうでなければ「自分の行動が社会にどのような影響を及ぼすかの思慮が極めて浅い、極めて残念な事例」であることは間違いない。


 現在の日本は「感染防止を極端な形で実施すると経済が破綻を来し、目先の経済活動を優先すると感染のオーバーシューティングが発生する」という局面にあり、国民には「感染のリスクを最小限に抑制しつつ、経済活動を最大限に回していく」いう、実に難しい判断や行動が求められている。それを突きつけられているのは大人だけではない。上記の例でも分かるとおり、そうした行動は高校生など未成年者にも期待されている。医療や経済などの社会機能が崩壊するリスクは、相対的にみて、前者のような若者がいっぱい育っている地域は低く、後者のような若者しか育っていない地域は高いと考えられるからだ。


 そう、「地域人材」を「社会の課題をジブンゴトとして捉え、様々な関係者とつながりながら、自分らしく貢献していける態度や能力を備えた人物」と定義すれば、未成年者にも地域人材として行動することが期待されるのだ。

 

地域人材は意図的に育成できるのか?

 実は「自分らしく社会に参画していきたい」と動いている高校生は、年々、着実に増えている。それは例えば、こうした高校生が互いに学びを交流する場として「認定NPO法人カタリバ」が始めた「全国高校生マイプロジェクトアワード」(以下「マイプロ」と言う。)のエントリー数にも表れている。震災から日も浅い2013年度に「12プロジェクト(PJ)・18名」からスタートしたものが、2017年度「229PJ・1694名」、2018年度「562PJ・2717名」、2019年度「2976PJ・9321名」と、大幅に増加しているのだ。

 

 ただ、このような指向性をもつ高校生の比率は、全体からみると未だ一部にしか過ぎない。特に今日、COVID-19がもたらす危機を回避するために必要な水準に照らすと、「地域人材」の域に到達した若者が、変人として肩身の狭い思いをするのではなく、多数派として堂々と活躍できるようになる必要があるのは明らかだろう。

 

 しかし、「社会の環境が変われば、若者の意識や行動も十分なレベルまで自然に変わる」のは難しそうだと、先述の例からも容易に想像がつく。つまり「地域人材」の育成は、実効性の高い方策を用いて意図的に進めるべき必要性が高いことを意味する訳だ。では、果たしてそれは可能なのだろうか。また、それはどうすれば実現できるのだろうか。


 その可能性を示す実例の一つとして、宮崎県えびの市に所在する県立飯野高校の教育活動を紹介しよう。同校は、人口減少に伴う統廃合の危機も背景に「自分らしく社会に参加していける生徒を(すなわち『地域人材』を)育成していこう」と決意。地域との連携を深めつつ、「地域の課題を発見し、解決に貢献するプロジェクト」を教育活動の柱に位置づけ、実績を積み重ねてきた学校だ。


 具体的にはこうだ。テレビや新聞で報じられる児童虐待に心を痛める女子生徒が2名いた。彼女らは「地元ではどうなっているのか?」と関心をもち、保健センターを訪問して取材。えびの市内でも、乳幼児から離れることができず、育児にストレスを抱えている母親が多い実態を知った。そこで「自分に何ができるか」を考え、自分たちで一時的に子供を預かり、母親にリフレッシュしてもらうイベントを企画して実施した。もちろん、来場した母親から大いに喜ばれた。そればかりか、評判が広がって、隣の市からも依頼が届くほどになった。彼女たちはこうした経験も携えて、医療系の学科等へ進学を果たした‥。

 

●宮崎放送 宮崎県教育庁チャンネル「みらい・みやざき・まなび隊」

 『グローカルリーダーズ summit in 飯野高校』(2020年1月25日 放送)

 

 注目すべきは、同校では誰もが各自の興味関心に応じて同様の挑戦を行っていること、そしてそれが、目立たない生徒たちの何気ない日常会話でも語られている点だ。もはやそれが学校や地域の空気になっている訳だが、こうした光景が実現するのは、同校がこれを組織的かつ情熱的に展開し、生徒が安心して挑戦できるからにほかならない。


 このような高校像は、都市部で暮らす方々には全く想像できないかもしれない。しかし近年、飯野高校のような高校は全国各地に現れ、各校から「みんなが幸せになるよう、自分らしく社会に参加していこう」という若者が毎年数十名以上の規模で送り出されている。


 以上より、地域人材‥社会課題の発見や解決に貢献できる若者‥は、意図的かつ組織的に育成することが可能である、といえる。


 もちろん、それには「高校と地域が連携できる」という条件がつく。また、当然ながら、飯野高校のような先進例を表面的に模倣するだけでは奏功しない。それは、学校の本音が合格実績など別のところにある場合、生徒はそれを敏感に察知し、一部の生徒だけが(学校では仮面をかぶったまま)地域で活動し、他の大多数は「関係ない」で終わるからだ。

高校改革と地域の将来

 いま、病院が備える機能に適当な線引きを行うと、「高校の通学圏」と「病院の医療圏」は概ね一致する。また、高校が動けば、毎年その学校から世に送り出される若者像は数十名~百名超の規模で異なってくる。両者をリンクすると、病院と圏域を共有する高校で育つのが、「社会の諸課題に当事者性を発揮できる若者」なのか、それとも「無関心な若者なのか」によって、COVID-19の感染が拡大するスピードや医療崩壊のリスクに、無視できない差が生じると考えられる。その差を想像すると、高校教育が地域に及ぼす影響の大きさを実感することができよう。


 なお、ここで留意すべきは「それはCOVID-19の問題にとどまらない」という点だ。今回はたまたま、これまで目を背け、あるいは先送りにしてきた潜在的な問題が、COVID-19によって「非常に分かりやすい形」で顕在化したしたに過ぎない。防犯・防災・福祉・環境・子育て‥等々、以前から提起されてきた様々な地域課題も、全く同じ構図によって起こっているのだ。それは、COVID-19問題の発生を好機として、「地域人材を育成する高校教育とは何か?」について真剣に考えるべきことを意味している。

地域連携と教科学力

 ふだん、地域課題と教科学習のつながりを実感できる機会はあまりない。そして、このような特性が「地域学習は進路多様校だけで行えばよく、受験対応でタイトな進学校には地域連携など必要ない」という誤解が蔓延する一因となっている。


 その点、今回のCOVID-19感染拡大は、「身近な社会問題をより適切に解決していくには、学問的な専門性が不可欠である」ことや「自身も課題解決に貢献していくには、その基盤として、教科の学力を十分に高める必要がある」ことを実感できる、貴重な機会となっている。それは、次の一例を示せば十分に伝わるだろう。


● 数値シミュレーションによる検討(横浜市立大学大学院特任教授・佐藤彰洋氏)
 https://www.fttsus.jp/covinfo/numerical-simulation/


 病原体の蔓延という面で不幸なのは間違いないところだが、半面、近年その重要性が提起されている「STEAM教育」(Science Technology Engineering Art Mathematics)の導入を具体的に検討する上では、好機到来ということができる。

生徒の自走性

 今日、高校は二つのグループに大別できる。一つは、社会の潮流や教育改革の動向を直視し、過去よりも未来を指向し、外向きで、改革に前向きな学校。もう一つは、潮流や動向から目を背け、未来よりも過去を指向し、内向きで、改革には後ろ向きな学校だ。ここで、以下、前者を「改革校」、後者を「守旧校」と呼ぶこととする。


 両者の差は、地域人材の育成に対する姿勢にも表れる。


 改革校は、「生徒の主体性」すなわち「学びの自走性」の向上に努めてきた高校、という側面も持っている。具体的には、生徒一人ひとりの「知りたい!学びたい!実現したい!」を尊重し、これを起点に、将来にむけた学びを広げたり、繋げたり、深めたりしていけるように配慮している。当然、探究活動の導入や学びのフィールドを社会に開くことにも誠実で、地域との連携も前向きである。


 結果、1~2年生の間に「学ぶ意味」や「志望理由」を掴めている生徒の比率は高まっている。また、受験に必要な学力の保障にむけては、ペースメーカー的に適度な課題を与えることはあっても、生徒が思索を深める時間を奪うことには自制的である。


 守旧校は対照的に、今なお「生徒の主体性」すなわち「学びの自走性」を奪いつづけている高校、という側面を持っている。具体的には、「自由を与えると遊びに走るだけ」という生徒観に基づき、一般入試で点数を取ること以外に関心が及ばないよう、「これでもか!」というほど大量の演習問題を投下する。履行状況を細かく管理し、たとえ萎縮しようとも、未提出者に対して激しい叱責を加えることに迷いがない。概して、生徒は学習内容をじっくり味わう余裕がなく、一部の生徒を除けば、受験科目を楽しいとは思えない。


 つまり、学習とは苦役であって「一刻も早く解放されたい」と思っている。加えて「学ぶ意味」や「志望理由」を掴むのも難しく、学びに向かう原動力を自らの内側に持てないまま2年生を終えてしまう。そして、こうした“物量作戦”の結果、手取り足取りの管理統制を受けないと学習を進められない“受験戦士”への改造が進む。

COVID-19が加速する高校の二極分化

 新年度は間違いなく、各高校が自校の教育活動を「自分と社会とのつながりを探る」ものへと劇的に転換できる、千載一遇のチャンスといえる。それは、COVID-19の感染拡大に伴う今回の臨時休校が、部活動の総仕上げに情熱を注ぐ機会を奪うなど、高校生にも強烈な衝撃を与えたからだ。


 ところが残念ながら、「このチャンスを活かして存在感を高めることのできる高校」と「一気に没落する高校」は、現段階でハッキリしている。よほどの決意がない限り、改革校と守旧校の差が拡大することこそあれ、縮小することはないのだ。それは、新3年生が高校で受けてきた教育にスポットを充てると、容易に理解できる。


 もし、今回の臨時休校が数ヶ月前から予告されていれば、そこからの巻き返しは至難の業だとはいえ、後者の学校も少しは意識づけや習慣づけを行えたかもしれない。しかし、ご存知のように、臨時休校は一刻の猶予もなく各校を襲った。では、どちらにも多少の動揺は当然あるとして、その先に起こることは何か。


 改革校の生徒は、原動力が「楽しい」「学びたい」であることから、学校に行けなくなった影響を最小限に食い止め、学習を淡々と進めていくことができる。むしろ、演習問題と自分のペースで対話できる自由度が高まり、理解をいっそう深めていく道も開ける。そして、むしろ3年生の自覚を高めた状態で新年度をスタートできる。


 仮に、COVID-19の感染拡大が収まらず、始業が遅れたとしても、学習内容を自分の力で(あるいは自分たちの力で)理解していける自立性が高まっているので、授業時間数が削られた影響を、これまた最小限に食い止めることができる。


 対照的に、守旧校の生徒は「勉学=苦役」であることから解放感に包まれ、また、もとより管理されないと勉学を進められない習慣が染みついてしまっているため、机に向かおうとしても意のままにならない。結果、臨時休校がなかった場合に比べて、勉学の進捗度は著しく劣るのは避けられない。


 また、仮に始業が遅れた場合、学校は生徒を元の状態に戻すために莫大なエネルギーを必要とする。ここに、授業時間の削減に伴う「教科書が終わらない」「入試演習ができない」問題が直撃する。


 以上より、新年度、改革校では「これまで築いてきた基盤の上に、さらなる転換に向けた準備を積み重ねていく」ことが可能であるのとは対照的に、守旧校は「目前の指導に忙殺されて、とても転換にむけて動くことなどできない」運命にあるといえる。

新3年生の大学進学実績予想

 こうした新年度が始まって数ヶ月後、新3年生は受験シーズンを迎えることになる。その結果がどうなるかを予測する上で、3つの視点を提示しておきたい。第1は「COVID-19による『演習時間を確保できない』問題」、第2は「大学入学者選抜制度の改革」、第3は「AO・推薦入試の合格ライン」だ。


 第1の「COVID-19による『演習時間を確保できない』問題」。これは「丸暗記して吐き出す」「パターンに慣れる」習慣が染みついた受験生にとっては恐怖以外の何物でもない。


 第2の「大学入学者選抜制度の改革」。大学入学共通テストの民間試験導入に係る迷走や混乱は、新3年生とっては記憶に生々しい。新制度ゆえ、ただでさえ対策を講じにくいところに、先の迷走や混乱である。となれば、特に後者の生徒には「できれば受験を回避したい」という心理が働きやすい。他方、新制度では、従来「AO・推薦入試」で重視されてきた要素の評価度が、配点面でも定員面でも高まるため、受ける恩恵は「前者の生徒は多く、後者の生徒は少ない」と考えるのが自然である。


 第3の「AO・推薦入試の合格ライン」。これについて理解しておくべきは「求められる準備の変化」だ。実は、現行制度で受験した旧3年生(今春の卒業生)でも、改革校と守旧校の差は一部で鮮明になっている。たしかに、2~3年前には「何かのイベントに参加した生徒に多少のメッキを施せば合格できる」余地も残っていた。しかし、旧3年生が受けた入試では、ほぼ失われてしまった。それは、飯野高校のような改革校が新規に食い込んできたからだ。


 同校は守旧校の「地域のプロジェクトは程々にして、英単語の一つでも暗記せよ」的な受験指導を卒業。「ジブンゴトとして情熱を注いでいるプロジェクトの延長線上」でAO・推薦入試を受験するのを後押しし、実際、九州大学や北九州市立大学等への合格者も出している。また、探究性や自走性の向上に大きく舵を切った岩手県立大船渡高校では、初めて大学入試を経験する旧3年生が「向かうところ敵なし」ともいうべき勢いで収めた実績は、広く知られている。つまり、大学入学者選抜改革にむけて、何年もかけて着々と準備してきた改革校が、現行制度の「AO・推薦入試」においても実績を収めている訳だ。しかも、大船渡高校は28年ぶりに、同様に早期から改革を進めてきた青森県立田名部高校では30年ぶりに、東大合格者を出している。


 以上をふまえて、新3年生の大学合格実績がどうなるか予測してみよう。改革校の生徒は、これまでの活動実績や学びを武器に、面接や小論文等を通して志望理由や学習計画を評価する「AO入試・推薦入試」で手堅く合格を獲得していくであろうし、混乱が少ない分、従来型の個別学力試験でも相対的に優位に立てるに相違ない。対照的に、守旧校の生徒は「演習不足に対する恐怖」や「新制度に対する不安」から、「上位校にむけて少しでも可能性を追求したい」とAO・推薦入試に群がる。しかし、それにむけた準備が及ぶはずはなく、撃沈が続くのは避けがたい。その後の一般入試では、実際に演習の量や質が伴わなかった限界が露呈し、やはり合格に及ばない懸念性が強い。


 以上の理由により、1年後の2021年3月、早くも新制度最初の学年にして、改革校と守旧校との間で大学合格実績に変化が表れていると予想される訳だ。

新2年生の大学進学実績予想

 新3年生が実績不振に遭うと、さすがに守旧校も焦るだろうが、残念ながら「時すでに遅し」と推測せざるをえない。


 AO・推薦入試で戦えるのは、既に、2年生までに十分な探究活動を積み重ねてきた生徒に限られている。一つのバロメーターは、「探究」と「マイプロ」の調和性を学校として深く理解し、出場を希望する新2年生が存分に活動するのを後押しできるか否かなのだが、その構えが現段階でできていない守旧校には難しいだろう。そしてその先、潜在性の高い新2年生でさえ十分な活動を積めないまま3年に進級したとしよう。その頃、守旧校では新3年生の不振に直面した教員が大慌てするのだろうが、それから焦って何かを始めたところで、全く勝負にならないのである。


 それだけではない。探究・地域連携・学びの自走性‥は全て地続きであり、これらを整合的に扱わない限り、生徒には力がつかないという事情も重なってくる。


 時々「うちはSSHだから有利だ」と語る守旧校の教師に出会うのだが、残念ながら、その認識は大きな誤りだ。それは、各地のSSH校やSGH校の活動現場や発表会を見比べてみれば、「出願する前に勝負はついている」のは一目瞭然だからだ。同じSSH校やSGH校でも、「課題研究を軸に受験科目まで探究的なトーンで揃っている改革校は課題研究のレベルも抜群」なのに対して「課題研究と受験科目のトーンが揃っていない守旧校の課題研究は圧倒的にショボい」のだ。


 実際、旧3年生で進学実績を収めたのは、探究と受験科目のトーンが揃っている改革校だ。大船渡高校や田名部高校がAO・推薦入試で成果を収めた上に、東大の一般入試で久々の合格者を出せたのは、生徒の学びが探究的なトーンで揃っているからなのである。


 この域で運用できるためには、高度な知識や技能が必要とされるのだが、それは断じて、一朝一夕に修得できる代物ではない。両校がそれを成しえたのは、「イノベーター」にあたる教師が「探究」でも「対話的な授業」でも5年以上前から実践を積み重ね、全国各地の実践者と情報を交換しあいながら改善をはかり、その上で組織的な導入をすすめる局面に入り、3年以上にわたって心血を注いできた経緯がある。改革校では「長年の努力が、最近ようやく開花しはじめた」のだ。そうした研鑽の先送りを重ねてきた守旧校が、地域で十分な探究を積む等していない学年の生徒に対して、AO・推薦入試の合格に届く指導を行うなど、土台、無理なのである。


 そもそも守旧校の新2年生は、真っ白な新入生ではなく、COVID-19のダメージを受けるとともに、旧来の指導によって育ててしまった「探究性や自走性の低い」在校生。学校として何か新しいことに挑戦できる余地は、ますます狭くなっているはずだ。それは、既に然るべき体制を整え、新2年生が「探究性や自走性の高い生徒」に育っている改革校とは対照的なのだ。


 こうして守旧校は、新2年生が臨む2年後(新制度2年目)の入試でも、敗退を続けることになる。おそらくこの頃(2年後の2022年3月)には、守旧校に対する評価はかなり厳しくなっているのではなかろうか。

高校を変えるチャンスの喪失

 実は、高校教育の改革については、早くから議論が進んでいる。


 大学入学者選抜制度については、高大接続システム改革会議において、2014年12月の中央教育審議会答申「新しい時代にふさわしい高大接続の実現に向けた高等学校教育、大学教育、大学入学者選抜の一体的改革について」や、2015年1月の高大接続改革実行プランに基づいて具体的な検討が進められ、2016年3月に「最終報告」が公表された。新3年生が高校に入学する2年前だ。


 各高校の教育課程移行については、2016年12月に中央教育審議会の答申「幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等 の改善及び必要な方策等について」があり、これを受けて細部の調整が進められ、2018年3月に学習指導要領の改訂が行われた。最初の学年である2022年度(令和4年度)生が入学する4年前だ。


 これは、いずれも約5年前の2015年度には骨格を十分に把握することができたことを意味する。つまり、今回の改革がどれほど大規模であるとはいえ、準備を進める時間は十分に与えられていたのだ。


 この視点をもつと、改革校とは「早くに動き、準備時間を十分に活かし、本質に迫り、なおかつ現段階で新たな体制の構築を概ね終えている高校」、守旧校とは「変わろうとする気がなく、メッキで済ませようとし、準備時間をどんどん失い、今なお新たな体制の構築には程遠い高校」と対比できる。


 仮に平穏な月日が待っていたならば、僅かながら、守旧校にも余地は残されていたかもしれない。しかし、このたび無情にもCOVID-19の感染拡大に襲われてしまった。状況の変化を受けて守旧校が今後どうなるか。‥見立ては先述のとおりである。

働き方改革が学校改革にかけるブレーキ

 繰り返しになるが、これまで先送りにしてきた守旧校ほど、改革には莫大な時間や労力を必要とする。百歩譲って、一教員が自身の担当科目で行うべき教材研究や準備に絞っても、短期間で進めるのは困難が多い。しかし実際には、組織的な改革を推し進めない限り、生徒には届かない。しかも、それには不眠不休の突貫工事を必要とする。


 そこに大きな壁として立ちはだかるのが「働き方改革」だ。残業を回避する目的で大幅にカットされているのが種々の「打合せや会議」だが、現状、それでも既存の業務を回していくのに精一杯。それは、新旧の指導を並行できる余地は極めて狭いこと、それ以前に、新たな指導を組織的に導入するために必要な意思疎通が、極めて難しいことを意味する。


 加えて「誰が何を成すために、どれほどのスキル、どれほどの労力が必要か」を正確に見積もることのできる教職員がいなければ、そもそも安全で確かな改革計画など立案しようがない。この厳しい制約下において、業務の優先順位・取捨選択・メリハリ等について指示を出すのは管理職だが、よほど研鑽と経験を重ねてきた人物でない限り、的確な判断を下すのは無理である。しかも、規模が大きい学校ほど、その厳しさは高くなる。


 以上、働き方改革によるダメージは「改革校には小さく、守旧校には大きい」といえる。

高校改革と高校入試の倍率推移

 改革校と守旧校が同一の通学圏に存在する例は、全国各地にみられる。かつて、高校進学や通学の流れは、改革校の所在地(周辺部)から守旧校の所在地(中心部)へと向かうのが普通だった。しかし、周辺部の改革校が努力の末にステータスを確立したエリアでは、周辺部から中心部への流出は泊まり、逆に、中心部から周辺部に向けた流れ、すなわち「守旧校よりも改革校を選ぶ」流れが太くなる例が増えてきた。中には、高校入試の倍率が数年前と逆転している例も少なからず見受けられる。


 こうした逆転が起こった理由は、改革校を選んで入学した生徒が明確に語っている。それは例えば、「先輩のキラキラした姿に憧れて、私もそうなりたいと思った」「自分らしく高校生活を送ることができそうだと思った」「チャレンジを応援してもらえる」「自分の時間を模試や課題で埋め尽くされるのは嫌だ」等だ。


 県内トップ校は影響が表れるまでに多少の猶予があるかもしれない。しかし、県や圏域によって事情は異なるものの、ここ数年間の変遷を見る限り、今後、守旧校の色彩が濃い「地区トップ校」や「都市圏の二番手~三番手校」は、ますます苦境に立たされるのではないかと推測される。

大学に進学する価値の問い直し

 今日、COVID-19は経済活動を直撃している。そして遠からず、経済危機が招来するであろう家計の悪化によって、学費を納入できなくなる大学生や、大学進学を断念せざるをえない高校生が、相当規模で現れるものと予想される。そうした若者の救済策を議論する中で、今回さすがに「そもそも何のために大学へ進学するのか?」「そもそも社会人になるために大学生活は必要なのか?」が問い直されるのではないかと思う。


 たしかに、医療系をはじめ、大学で学ぶ高度な知識や技能が基盤になる職業は多い。半面、出身大学名を採用時のフィルターに用いているだけの実態もある。これについては、未だ社会には広まっていないが、既に「大学教育には(当然ながらそもそも)学生の社会人基礎力を高める力はない」という調査結果が公表されている。そうした知見を賢明な企業・高校・高校生・保護者等が共有したならば、「有名大学への進学は安定した企業等に就職するための手段である」という(二重三重の)虚構性を超えた就職ルートが広まるのは、自然の成り行きと考えることができる。


 それは、「みんなが行くから自分も」的な大学進学が減少し、結果として「大学進学率の低下」ももたらすであろうことを意味する。

高校が存在する価値の問い直し

 それは、進学校に対して「そもそも、大学に進学する意味は何なのか?」という問い直しが行われ、「偏差値を高めるために生徒の時間を極限まで奪う受験指導」に対して疑問符を投げかける中高生や保護者が増えるであろうことを意味する。となれば、偏差値向上にむけた管理統制の徹底が今よりも難しくなるのは必定。綻びが広がり、勉学に向かう雰囲気が損なわれ、進学実績への影響も避けられないだろう。当然、守旧校には痛手になる。


 また、ひとたび問い直しが始まると、事はそこで止まることはない。おそらく「高校卒業後に就職」という指向性が強まり、「卒業後に大学へ進学しなくてもよいよう、社会で活躍するために必要な力を高校教育で育成せよ」というところまで突き進む。その延長線上で、高校が「社会に参画するための学びを教育課程に明確に位置づけ、教育活動を授業時間に地域で展開する」重要性について、社会的な理解が深まるのは間違いない。当然、改革校の存在感はさらに高まることになる。

オンライン化の影響

 COVID-19による臨時休校は、これまで遅々として進まなかったオンライン学習への道を一気に開いてしまった。それさえなければ、今なお「リアルな学校に通うこと」が空気と同じレベルの生徒や保護者が圧倒的多数を占めていたであろうが、この1ヶ月間に「必ずしも学校に行く必要などない」「むしろオンラインの方が自分に合った内容を自分のペースで学んでいける」ことに気づいてしまった生徒や保護者は、少なくないに相違ない。それによって「生徒を学校に集め、厳しい管理統制の下、偏差値を高めるため、個々の興味関心や適性から離れた内容を、全員一律のペースで学ばせ」続けている守旧校の求心力は、低下することこそあれ、向上することはないであろう。


 また、守旧校の本音が「世の中は偏差値だと信じ込ませるため、生徒を社会から遮断したい」にあることが露呈し、加えてオンライン学習の可能性が周知されれば、「朝から夕方まで(‥果てには土休日までも)校内で拘束を受ける」必要性や必然性は乏しく、むしろ弊害だと気づくのは時間の問題であろう。

N高校の脅威

 実は、今回の臨時休校がなくても高校教育のオンライン化は着実に進行しており、その動きを象徴する「N高校」には、既に12,414名以上が在籍している(2020年1月現在)。もはや、日本の高校生のうち約250名に1人はN高校の生徒であり、しかもその比率は増加の一途をたどっているのだ。


 この比率や増加率が「自分のペースで学びたい」というニーズを反映したものであるとすれば、守旧校にとって大きな脅威になるのは間違いない。それは、従来は(近隣のライバル校がノンビリしていれば)生徒を奪われる心配は少なかったのに対し、今や(近隣校はともかく)自校がよほど努力して存在感を高めない限り、N高校に生徒を奪われる危険性が高いからだ。しかも、探究性や自立性が高い生徒から順に抜けていき、低い生徒の比率がさらに高まっていくであろう趨勢を想像すると、守旧校が改革に着手できる余地はますます狭くなると言ってよかろう。


 また、N高校の脅威に晒されるのは典型的な守旧校だけではない。統廃合が取り沙汰されている過疎地の小規模校は、危機感を背景に改革を断行しやすい機動性を活かしきれない限り、N高校へ流出がトドメになりかねないのだ。

定時制や通信制の新たな可能性

 オンライン学習の可能性に関する理解が進めば、その先「社会に参画する感覚や技能を高めるためには、昼間は会社や事業所等で働いたり、地域で課題の発見や解決を行ったり、リアルな学習に充てた方がよい」「社会に参画する土台を固める教科学習のうち、地域の現場を必ずしも必要としないものは、悪天時や夜間、空き時間、感染症の危機にある期間等に、オンライン学習で進めればよい」と気づくのに、さほど時間は要しないだろう。


 実は新年度、このようなコンセプトの公立高校が新規に開校する。長野県長野西高等学校の望月サテライト校であり、次のような考え方や仕組みをもっている。


 「生徒にとって重要なのは、社会と関わっていく力の育成だ。それには、生徒が地域の様々な活動に参画することが大切で、学校はそれを全力で後押しする。ここで、地域活動の中には昼間に実施されるものも多い。しかも、参加する時間帯は、生徒一人ひとりバラバラかもしれない。だから、生徒が地域で存分に活動できるよう、時間割はカスタマイズできた方がよい。また、時には没頭したい局面もあるだろう。だから、登校を要する日数は週1~5日にする。他方、高校卒業の要件を満たす上でも、教科の学習を軽んじる訳にはいかない。ただし、そのために教室で縛る必要などなく、EdTechを活用すればよい。」


 ともすると、従来は「全日制が基本であり、定時制や通信制はそれを補うもの」という考え方が強かったかもしれないが、高校教育改革の文脈に照らすと、むしろ望月サテライト校の方が基本とするにふさわしいことが分かる。


 こうしてみると、改革校でさえも発展途上にあることを理解できる。「現在相は過程相であって決定相ではない」訳だ。

高校教育改革の原点再確認

 言うまでもなく、高校教育は学習指導要領に則って実施されるべきものである。また、高校教育を通してどのような資質や能力の育成が求められているのかは、やはり、学習指導要領に明記されている。

育成を目指す資質・能力の三つの柱
① 何を理解しているか・何ができるか(知識・技能)
② 理解していること・できることをどう使うか(思考力・判断力・表現力等)
③ どのように社会・世界と関わり、よりよい人生を送るか(学びに向かう力・人間性等)

 抽象的な文言ゆえ、育成したい人物像を具体的にイメージすることや、ましてや他者と共有することは、これまでなかなか難しかった。しかし今日、「地域・日本・世界がCOVID-19に起因する目前の危機を乗り越えるために育成すべき人物像とは何か」をイメージすると、一言一句が胸に染み入ってくるのを感じることができよう。


 参考までに、上記のような「三つの柱」が打ち出されたのは、唐突な話ではない。少なくとも、2006年に教育基本法が改正され、「学力の3要素」が定義された時からの歴史をもっている。また、文部科学省は2017年から各大学に対して、入学者の受入れ方針(アドミッション・ポリシー)を公表するとともに、入学者の選抜にあたっては「学力の3要素」のそれぞれを適切に把握(し、総合的に評価)するよう留意することを求めている。


 今日の社会状況や教育政策の変遷もふまえながら上記の文言を読むと、改革校とは「奇策に走った学校」ではなく「原理原則を深めてきた学校」ということができる。また、この方向で大学入学者選抜制度の改革が進んでいることを考えると、大学進学の面でも明るい将来を期待できる。対照的に、守旧校こそ「この期に及んで原理原則に背き続けている学校」「これまで標榜してきた大学進学実績の面でも将来は暗い」ということができる。

おわりに

 守旧校の先生方は、以前から大学入試を盾に「旧来の受験指導」を変えない正当性を主張し、「地域人材」の育成につながる教育改革にむけた挑戦に対して、無視を決め込んだり、著しくは足を引っ張ったりしてきた。そして、その頑なな態度が、高校教育・大学教育・高大接続をセットで改革する「高大接続システム改革」が打ち出される要因となった。


 たしかに、かつては「点数をとれないと志望する大学に進学できない」現実、すなわち「偏差値を追求する指導」にも一定の価値や正当性を認めざるをえない実態があったかもしれない。しかし、本稿で様々な角度から分析を試みてきたとおり、そうした実態はどんどん失われており、守旧校が今後なお変化を拒むならば、この先、生徒や社会に損害を与え、学校の寿命を縮めるのは明らかである。


 最後に重ねて強調すべきは、COVID-19の感染拡大は、改革校が進む方角への流れを確定するばかりか、これを加速する作用をもっている点である。それは、どんなに復活を叫んだところで、守旧校に未来はないことを意味する。都を終われた守旧校は西に下り、遠からず壇ノ浦を迎える運命なのだ。


 だとすれば、守旧校を牙城にしてきたベテランの先生方が名誉ある最後を飾りたければ、ぜひ、改革に前向きな若手の背中を押していただきたい。そして、間違っても、足を引っ張る愚だけは犯さないでいただきたい。


  COVID-19は私たちに深刻なダメージを及ぼす役割を演じることは間違いない。と同時に、大局的には、教育改革の推進も含めて、世の中を良い方向へと導く役割を演じることもまた間違いない。そう強調して結びとしたい。