· 

歳末雑感

 この一年間、激しく動きまわったことを通して気づいたことは、お世話になった皆さまへの御礼も兼ねて年内に吐き出しておかねば‥と思い、思いつくままに書き綴ってみました。長文や乱文はご容赦ください。

 

■ 学習作業におけるエネルギーの生成・供給・消費

 

 学習が進展する仕組みを「エンジン・ギア・車輪」の関係に喩えてみよう。

エンジンの内部で、ガソリンが燃焼するエネルギーによって、例えば「吸入→圧縮→爆発→排気」の過程を経て回転動力が生み出され、これがギアを介して車輪に伝わると、自動車は前進する。同様に“某かのエネルギー”によって思考過程が回り、これが手足に伝わると、学習作業が進展する。

 

 つまり、「より速く・より遠く」が学力向上に、「減速や停止による到達距離不足」が学力低下に対応する訳だ。

 

 では、平成の前半に経験した学力低下、それに対する学力向上策、今日的な教育改革、それを阻む種々の困難は、どのように説明できるのだろうか?

私は最近、あの学力低下は「エネルギーの枯渇」に起因する現象だったのではないか?という認識を強くしている。

 

 今にして思えば、学力低下が起こる前は、日本が未だ「Society 3.0」‥規格品の大量生産によって個人も会社も国も豊かになれる社会‥で成功を収めていた時代だったように思う。

 

 その時代には、人材育成も「規格品の大量生産」が整合的だった。興味関心や適性を封印しても、受験用の知識を詰め込み、点数を取ることに成功すれば、より豊かな生活のできる会社への就職‥部品としての組織への従属‥が約束された。

 

 仮に、好奇心からは遠い「詰め込み・受け身・機械的」といわれる形態であったとしても、それなりに学習作業が回ったのは、より豊かな生活への期待感がインセンティブ‥エネルギー源‥となっていたからだと考えられる訳だ。

 

 そして、このシステムが機能しなくなった一因は、バブル崩壊に伴う就職氷河期の到来にあったのではないかと思う。就職や収入が約束されなければ、不本意な学習作業のために我慢する意義は見出しがたい。となれば必然的に、学習作業に充てるエネルギーは減少し、到達度は低下する。

 

 従来の在り方に対する反省から生まれた「ゆとり教育」が期待通りに機能しなかった一因も、そこにあったのではないか。学習内容を大幅に削減し、能動的な学習への転換を訴えても、学習者にエネルギーが枯渇していたら、スピードや到達距離が落ちるのは必定だ。それが「学力低下」だった訳だ。

 

 残念ながら、平成の中頃に打ち出された学力向上策にエネルギーの視点は希薄だった。生徒は主体的に学ぼうとはしない。しかし、スピードや到達距離は回復したい。それを背景に生み出されたのは「教師をエネルギー源として生徒の学習作業を回す仕組み」だった。

これは「エンジンと車輪をつなぐギアが入っている状態で教師が自動車を押す」ようなもので、教師が押すのを止めた途端に停止するのは必定だ。

 

 また、ひとたび「押される」ことが学習だと経験してしまった生徒は“自ら動く”ことをしなくなる。結果、教師にかかる負担は増大の一途をたどることになる。教師の多忙化や働き方改革を考える際、絶対に見逃してはならない視点だ。

 

 ここで、押される生徒は楽かといえば、そうではない。自動車を動かせばエンジンも動く。つまり、頭を使わねばならない。これを苦痛に思った生徒は「ギアを外す」ことを覚える。

 

 そしてその瞬間、生徒も教師も楽になる。丸暗記に走った生徒は考えずに済み、教師は“押す力”が軽くなるからだ。

 

 実は、受験指導を物量作戦でゴリ押ししている高校の教師が異口同音に語ることがある。それは「ウチの生徒は素直で従順です」というものだ。それは「生徒がギアを外した状態」だと理解すると合点がいく。

 

 こうした傾向に対して「それではいけない。生徒に思考をさせねば!」と打ち出されたのが「探究」、すなわち「課題設定→情報収集→整理・分析→まとめ・表現」という思考過程だ。

 

 ただ、残念ながら、エネルギー源に関する理解が浅い教師が「生徒に探究を」と聞くと、重苦しさしか覚えない。その一面は「上り坂でニュートラルの自動車を押し上げるだけでも大変なのに、ギアを入れてしまったら‥」という感覚だ。

 

 探究に関する授業実践を聞いて、こちらが重苦しさを覚えることもある。それは「自動車を必死に押したら、エンジンの中でピストンが動きました!」的な域を脱していない例だ。

 

 もちろん、提唱する側が描いていて、生徒に届けたい「探究」とは、生徒自身のエネルギー源でという探究サイクルを回し、これを車輪に伝えて学習を前進させる、という姿だ。

 

 では「生徒自身のエネルギー源」とは何か。それは「知りたい・学びたい・実現したい」という知的欲求から生まれる学習意欲だ。

 

 つまり、いま私たちには「いかにして学びに向かうエネルギーを生徒に発生させ、これを増大させるか」が求められている訳だ。

 

 その上で、このエネルギーを学習作業へと伝達する機構が必要だ。この伝達が適切に行われてこそ学習作業は進展し、喜びを覚え、次なる知的欲求が生まれ、エネルギーが充填される。エネルギーの拡大再生産を伴いつつ「より速く・より遠く」が実現する。

 

 そして、このようなプロセスを実現するため、エネルギーの生成や収受も含め、生徒の学びを組織化する営みが「カリキュラムマネジメント」の本質だと思う。

 

 それには、生徒がどこに興味関心をもっているかを把握し、それをどの科目のどの学習内容とどう有機化すればよいのか、丁寧に描くことが必要だといえる。強調すべきは、その成否を分けるのが、教師をはじめとする大人の対話性にある点だ。

 

 加えて、生徒の興味関心は一人ひとり異なり、それゆえエネルギーの発生源も異なる事実に着目すると、カリマネを成功させるには、個々の生徒について「学びの形」を見極めることが必要といえる。「個別最適化」だ。

 

 さらには、エネルギーや個別最適化の視点をもち、そこを起点としてこそ、「主体的な学び」も「働き方改革」も初めて実現するといえる。

 

■ 地域探究と高大接続

 

 今年は大学入試改革をめぐる混乱が表面化した年だった。提起されている問題の解消に努めるべきは当然であるが、そこに注意を奪われるあまり、若者が別の形で不利益を被る事態だけは絶対に避けなければならない。そのためには、一度この問題を大きく俯瞰してみる必要があろう。

 

 そもそも、事の発端は「大卒の新人が使い物にならない」という不満が経済界から表明されたことだった。そしてその矛先は大学へと向けられた。こうして大学改革が始まった訳だが、やがて「大学では遅い」と、新たに高校も標的になった。

 

 改革を突きつけられた高校の側も、学習指導要領を尊重した教育活動を展開していれば、そもそも経済界の不満が募ることはなかった。ところが、高校は長年にわたって学習指導要領を「建前」と位置づけてきたほか、標的にされた後も二言目には「大学入試が‥」と反論し、誠実に対応しようとしなかった。それでやむなく「大学入学者選抜も変える」ことになった、というのが顛末だ。

 

 要するに「高校や大学で学べば学ぶほど、より社会で活躍できる」状況を実現すればよいことを意味する訳だが、では、それを阻んできたのは何か。

 

 それは、会社が新入社員にも規格品的な能力を要求し、その指標として大学のブランドや偏差値を重視してきた点を見逃す訳にはいかない。

 

 高校には本来、学習指導要領に則って、実社会での活躍にもつながる課題発見&解決能力を高める教育活動が求められてきた。だが、出口保証の観点から、受験指導に力を入れざるを得なくなり、いつしかバランスを失ってしまったのが実情という訳だ。

 

 この方向性に拍車をかけたのが「新卒で就職した会社で定年まで雇用してもらえる」期待感、裏を返せば「新卒で就職に失敗すると雇用が不安定になる」という恐怖感だろう。となれば、偏差値アップに血眼になるのはやむを得ない面もある。

 

 しかし「そもそも」を考えれば、実は、全く別のアプローチが有効だと分かる。

社会との関わり方を覚えるには、社会とじっくり丁寧に関わる経験をすればよい。それには、実際に働いてみればよいし、そうでなくともPBL(Project Based Learning)に十分な時間を充てればよい。

 

 その価値や可能性が視野に入れば、社会が動いている昼の時間帯に、社会から隔絶された学校で、受験に偏重した訓練に終始する異常性にも気づくだろう。また、そうすれば、大学入試改革に対するヒステリックな態度も緩和され、高大接続の円滑化も進展しうるであろう。

 

 こう指摘すると「そんな時間は今の高校には‥」という声が聞こえてきそうだが、「そもそも」に照らした時、3年で卒業すべき必要性や必然性がどこにあるのだろうか?‥限界を感じるのは、単に固定観念に縛られているからに過ぎない。

 

 一足飛びにそこまで到達するかどうかは別として、こうした世界にむけた動きは既に全国各地で始まっている。その舞台となるのは、多様性の高い集団において対話的・協働的に新たな価値を生み出していく「Society 4.0」への移行を遂げた‥あるいは遂げつつある‥地域や高校だ。

 

 ただ、それは地方ならどこでもよい訳ではない。長老が異論を排除しがちな「Society 2.0」的な地域や高校は、そもそも消えゆく運命にある。逆に、役割の細分化や固定化が過度に進行した「Society 3.0」的な色彩の強い、都市部の地域や高校に全く可能性がない訳でもない。望みは薄いとはいえ、都会ならではの多様性を活かす形で「Society 4.0」への移行に成功すれば、これまた未来につながる舞台になりうる。

 

 以上より、「Society 2.0~3.0」から「Society 4.0」への移行を促すこと、そして、子供や若者を「Society 2.0~3.0」的な地域や高校から解放し、「Society 4.0」的な地域や高校へと先行的に移すことが課題ではないか、という認識を持っている次第である。

 

 年の瀬にあたり「その延長線上に、地方創生を含め、新たな日本社会が到来する」というビジョンを改めて脳裏に焼き付け、新年を迎える礎としたい。