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高校教育改革は内閣府・知事部局マターである

 ご存知のように、昨日、中教審の答申が出ました。

 

■ 中央教育審議会「令和の日本型学校教育」の構築を目指して~全ての子供たちの可能性を引き出す,個別最適な学びと,協働的な学びの実現~(答申)令和3年1月26日

https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/079/sonota/1412985_00002.htm

 

 これは、文部科学省からの諮問に対する答申なので【文部科学省や教育委員会が】なすべきことが述べられているのですが、いま必要なのは、ここに掲げられた教育を実現していくために【内閣府・知事部局が】何をどのように成すべきか?の議論だと考えています。

 

 官僚は能力が高いので、答申に掲げられた連携や協働の必然性や必要性は理解できています。しかし、現状からの移行プロセスは描けない。

 

 他方、移行プロセスを具体的に設計して運用できる顔ぶれは天才的‥つまり属人的。それは、通常の知識や技能で、全国津々浦々の高校まで変えるのは無理だということ。

では、どこに課題があるのか。‥種々ある中で見逃せない一つは、

 

高校と地域の協働が、今なお、ある種の固定観念に基づいて、「県立高校×市町村長部局の関係性が念頭に置かれている。

 

点です。市立高校と市役所の連携が円滑な理由をヒントにすれば「県立高校の連携先に知事部局が位置づけられていない実態は不自然である」という構図が見えてくるはずです。

 

 

 

 同様に、いきなり都道府県の知事部局に高校教育への当事者性を求める以前に、諸省庁が文科省に対して当事者性を発揮することが重要。こうして、内閣府が諸省庁に対して然るべき働きかけをすべき重要性が浮き彫りになります。

 

 ただ、それを無条件に進めていけばよいかといえば、別問題。それは、これまでも「思いつきレベル」の施策が文科省に降り、さらにその先(知事部局ではなく)教育委員会に降り、学校に降り、混乱や疲弊をもたらした歴史からも明らかです。

 

 つまり、国レベルでも都道府県レベルでも、叡智を結集して政策化し、適切に実施していける体制が必要。ただし、それは【何をやるか】【誰がやるか】が重ならない限り、極めて厳しいです。

 

 その突破口を開き、キャズム越えへと導くチャンスが岐阜県にはあったのですが、少なくとも今後 4年間は絶望的になりました。

 

 これほど変化が激しい時期に、上図を提示した 2015年 9月から、古田知事の任期が終わる 2025年2月まで、10年間も放置されるダメージは甚大であるといわざるをえません。本当、悲しい、、

 

 そんな今、私の主要な関心事は、次の 3点です。

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① 岐阜県内で「知事部局に依存しない仕組み」づくりを民間主体でどう進めていくか?

 

どこの県、どの知事と「知事部局×県立高校」の本来的なモデルを構築していくか? ‥どの知事となら進めうるのか?

 

③ それが絶望的な(=知事部局も教育委員会も当事者能力をもちえない、中教審答申に描かれた世界の具現化が「無理ゲー」な)都道府県の高校生をどう救っていけば(‥どう解放していけば)よいのか?

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 このうち ①は、今回の岐阜県知事選挙を通して御縁をいただいた皆さんと一緒に、何かやっていけそうな気がしています。そしてそれが、③の処方箋になるようなイメージがあります。‥ ぜひ、やっていきたいです。

 

 ②については、そもそも教育委員会の当事者能力が前提条件になるので、実現可能な県は非常に限られてきますが、もしあれば、進めていきたいと思っているところです。

 

 ③については、部分的な解決策にしかなりませんが、一つのアプローチとしては「都道府県立高校の市町村移管」がありえるでしょう。

 

 ただし、それを認めてもよい前提条件は、先に述べたのと同様、【市町村レベルで、叡智を結集して政策化し、適切に実施していける体制】があること。換言すれば【何をやるか】【誰がやるか】を重ねられることです。

 

 少なくとも、先進事例の表面的な模倣しかできない市町村に認めてはダメ。そもそも、すぐ「答」に飛びつく「知の過疎化が該当市町村の疲弊を招来している場合が大半なので。

 

 専門性が高い案件ほど、より広域的な対応が求められることから、高校を「県立」として運営する体制には一定の合理性があると考えています。そして、それを支えるパートナーとしてキチンと位置づけるべきが「知事部局」だと考えています。

 

 そうした合理性の範囲で、あるべき形や機能の実現にむけ、理論面と実践面の双方からアプローチを続けていこうと、思いを新たにしているところです。