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高校に地域連携を強調しすぎる危険性

 高校生の探究を充実する上で、高校が地域との連携を進めることは重要だ。地域の意向に耳を傾けつつ、学校の文脈と地域の文脈を丁寧に織り込んでいけば、学校側のメリットも大きくなるからだ。

 

 ただ、だからといって、地域の意向を無制限に受け入れることに対しては慎重にならねばならない。それは、学校が教育課程を通して果たすべき使命を果たせなくなるからだ。

 

 高校と地域との連携・協働もまた、高度な知識や技能を身につけた者が企画・運営する限りにおいては、良好に機能する。しかし、基礎基本さえ押さえないで表面的な模倣に走ると、該当校の教育活動が大規模に崩壊する危険性も伴っている。

 

 近年、そうした危険な兆候が散見されることから、一度ここで少し頭を冷やし、原理原則に立ち返った上で、洞察力を発揮し、本質策で臨む重要性を感じている。

 

 具体的には、高い力量を備えた指導者が慎重かつ丁寧に運用できる保証がなければ、学校教育から「地域のために」色を抜くことだ。

 

 それは「地域」を強調すればするほど「自己の在り方生き方との一体性」や「諸教科との有機性」は見落とされがちになり、教育課程に「総探」が位置づけられている趣旨から外れていくからだ。

 

 そのうち、真っ先に着手すべきは、生徒一人ひとりが『自己の在り方生き方と一体的で不可分な課題』で探究できるようにすること。それには「各生徒の興味関心に関連しそうなフィールドを提示する道」や「地域課題に対する当事者性を丁寧に高める道」が考えられるが、いずれでも構わない。

 

 ここで、重要な留意点が2つある。

 

 1つは、学校にとっては「興味関心の多様性に応じて探究の場を『校内から地域にも広げる』ことが鍵」だという点だ。その重要性は、人文系や自然科学系などを「マイテーマ」とする生徒を想像すると、すぐに分かる。学校が熟慮なく「地域を前提にする」と、自分にとって意味のある探究の機会が奪われるのだ。

 

 もう1つは、「10代後半の若者がマイテーマで探究する」ことと「高校生が教育課程に位置づけられた総探に取り組む」ことは必ずしも一致しない点だ。両者の共通点と相違点を正しく識別するには「そもそも総探とは何なのか?」に関する深い理解が欠かせない。そしてそれは、「総探」に「マイプロジェクト」を導入する効果と限界を理解することと

概ね同義である。

 

 

 ここで終わってはダメだ。

 

 いま「特に学校にとって」必要なのは、「生徒」一人ひとりについて、どのような課題を持てたら、当事者性が十分な域まで高まり、諸教科を学ぶ原動力となり、逆に諸教科でつけた力を課題解決に活かす経験ができ、あわせて協働性・価値創造性・社会参画性が高まるか、見通しをもち、(個に応じて)学びを組織化し、支えていくことだ。

 

 それには、(例えば)学級担任、複数の教科担任、協働性や社会参画性を高める現場を提供する地域関係者、探究の伴走者、コーディネーター等、多様な顔ぶれが丁寧に対話し、ゴールやストーリーのイメージを共有することが必要なのは明らかだろう。つまり、そのためにこそ対話の場が必要なのだ。

 

 また、上記のような学びをデザインするには、たしかにPBLやマイプロ等の視点も有効であろう。しかし、それだけでは学校教育的には完結しない、という点にも理解が必要である。諸教科の学習との有機化をキチンと進める用意がないまま、総探に「地域課題の発見・解決」「マイプロジェクト」を導入するだけでは、新課程の趣旨に照らして合格とはいえないのだ。

 

 それは、総探の趣旨に照らして「学校が手厚くサポートしていくのが妥当なテーマ」と「地域が手厚くサポートしていくのが妥当なテーマ」との間で分布をなすであろうこと、そして「全ての生徒がマイテーマで探究するには、学校と地域がカバーしあう」ことが重要であることを意味する。

 

 学校の殻に閉じこもり、地域からの真っ当な働きかけに対してまで頑なな態度で臨む教職員に対する憤りは、私はきっと誰よりも強いのではないか、と自覚している。

 

 その一方で、新学習指導要領解説「総探編」を熟読して深く理解した者でない限り「教育課程」に関する議論で「地域」を持ち出すのは控えて然るべきである、という思いも、きっと誰よりも強いのでは?と思っている。

 

 今日、大半の現場は、いきなり方策を探りはじめてよい段階にはなく、高校教育に内側から関わる者、外側から関わる者、双方とも、まずは対話の場に臨む前提として、新学習指導要領に関する基礎知識を身につける(‥アップデートする)ことが必要な段階にある。拙速に走ることなく、ぜひ、そこから丁寧に始めていただきたい。