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【新教育課程】特色化と自走性懐疑論者が重なる悲劇

2021年6月8日のFB投稿より転載

 

高校には歴史的な産物として「教師が好む料理を全員に食わせる」体質が染みついており、それを「美味しい!」と感じる生徒はどんどん食べて成長していく。そして、食べようとしない生徒には「無理やり食わせる」ことで、一定の秩序が成立している。

 

結果、腕の悪い教師ほど「無理やり食わせないと食わない」経験が擦りこまれる。こうして、学びの自走性に対してはどんどん懐疑的になっていく。

 

また、無理やり食わせるには、どうしても時間がかかる。結果、教育課程を編成する会議では、教科間で授業時間数の分捕りあいになる。しかし、構造的な問題として、授業時間数を少し余分に確保したところで焼け石に水。「無理やり食わせる」指導は続く。

 

これが日本全国の傾向だったならば、当然、様々な方面で「○○力の不足」問題が表面化し、政策的に「○○力の強化」が打ち出される。典型は「科学的思考力」「国際関係力」だろうか。

 

すると当然、指定校では教育活動がその方向にシフトする。そして「美味しい!」と感じる生徒にとっては、この上ない環境となり、華々しい成長を遂げる。問題はその裏側だ。

 

こうしたシフトによって「無理やり食わせる」体質はほとんど解消されない。それどころか、そうした環境の創出に教師の時間や労力が投入されるため、それ以外の部分が手薄になって「無理やり食わせる」指導が形骸化の危機に直面。「余分なことはやれない」となって、学校は硬直化する。

 

元々こうした状況があって、新教育課程への移行がままならないところに、働き方改革とコロナ禍が学校を襲った。準備が遅れていた学校が動けようはずはない。

 

実は、新学習指導要領は「教師が好む料理を無理やり食わせる」在り方からの脱却を意図している。代わって、生徒一人ひとりに「①どんな食事をできたら幸せだろうか?」を問い、「②農場や市場に行って材料を調達」し、「③集めた材料を調理し、客にふるまい、自身も味わう」在り方を謳っている。喩えるとこうだ。

 

農場や市場では、創作する料理をイメージしながら食材の見極めを行う。同じ魚を見て、刺身をイメージする者もいれば、煮魚や焼き魚をイメージする者もいる。また、同じ魚なのだが、頭の中でイメージしている調理の様子は一人ひとり異なる。

 

その先、各々の食材をじっくり味わい、各々を調理する方法を身につけ、各々の特性を深く学ぶことでイメージが広がり、新たな料理を思いつくことは、むしろ自然な成り行きといえる。

 

新学習指導要領がこうした流れを想定していることは「育成をめざす資質・

能力の三本柱」を読むと分かるだろう。

 

というところで、改めて旧課程と新課程を対比してみるとしよう。

 

旧課程とは、食卓や調理のイメージがない状態で、1時間目は「米屋に連行されて米を腹いっぱい食わされ」、2時間目は「八百屋に連行されて野菜を腹いっぱい食わされ」、せいぜい「出来合の特盛り弁当を胃袋に押し込められる」学校生活と喩えうる。

 

幸せな食卓を想い描く経験をしたり、調理する力をつけたりは無理。「もう食べたくない」「食べたフリ」が習慣化するのも不可避だ。

 

新課程では対照的に、①や③を大切にすることで、②の意味や効果を深めていこう、としている。そしてお気づきの通り、①や③を経験する時間として用意されたのが「総合的な探究の時間」(総探)だ。

 

それは「総探」の時間をしっかり確保し、丁寧に実施した方が、各教科の授業にかかる負担が軽減され、しかも高い成果を収めうることを意味している。

 

ここで言及すべきは、①や③を②と繋げるべき重要性だ。それは、いくら食卓をイメージする時間や、調理する時間を設けても、各教科で「単品の食材や出来合の弁当をで胃袋に押し込める」授業しか行わなかったならば、最終的に③は意味を成さないからだ。

 

こう解説すると「入試が‥」「保護者や地域の期待が‥」という声が返ってくる。たしかに、大学入試や就活までは、それでクリアできるかもしれない。しかし、総合型選抜や推薦入試の動向をみれば、

 

「どんな食卓を描き、どんな食材にふれ、調理の腕をどう身につけ、どんな料理が浮かび、誰に供し、どんな反響があったか?」

「食卓や料理について、どこまで解明でき、どこから先が未解明なのか?」

「大学では、何をめざして、何を解明し、どんな力をつけ、何に挑戦するのか?」

 

が問われていることが分かる。

 

また「現在、そして未来、世の中で評価されるのは、どんな力なのか?」「大量に呑み込んで吐き出す能力は実社会でも評価されるのか? ‥それは保護者や地域の期待なのか?」を想像すれば、打つべき手は明らかだ。

 

もし、この期に及んで、それを期待する保護者や地域だったならば、若者は何の未練もなく家や地域を去っていくのは想像に難くない。

 

以上より、何を申しあげたいかはご賢察の通りである。

 

学校の特色化を強行しようとすればするほど、生徒の自走性に懐疑的な教師は頑なになり、自走性を高める教育活動を展開できる学校への転換は阻まれる。

 

具体的には、こうした現場の実情を知らない“有識者”が、華々しい教育手法を高校に導入しようと躍起になればなるほど、現場の余力は失われ、生徒や教育に対する見方・考え方をアップデートする意欲や時間が奪われ、学校が変革を遂げるチャンスが閉ざされ、一部の華々しい成果と引き換えに、それに乗れない生徒が置き去りにされ、教育格差の拡大が不可避となる。

 

代わって、自走性懐疑論に基づく特色化よりも圧倒的に優先順位が高いのは、生徒観の転換を着実に進めつつ、自走性に立脚して、①~②~③を組織化した教育課程を編成&運用することである。

 

また、そもそも「学校の特色化」は旧課程の感覚に基づいて展開されている場合が多く、それが総探の内容や方法を逆方向に固定し、新課程への移行を妨げている実態がある。

 

こうした構図が温存されているがゆえに、想いや力量のある教師ほど消耗を余儀なくされ、心折れていく様を、学校設置者や華々しさを好む“有識者”は、果たして理解しているのだろうか?

 

(私のもとには、事実として、今月に入ってからだけでも、旅先でも、こうした構図に起因するご相談が、片手では足りないほど届いている)

 

なお、念のために申し添えておくが、特色化と新課程は決して矛盾するものではない。新課程への移行と特色化を統合的に進めていく道はあり、そうすれば「鬼に金棒」になる可能性は高い。あくまでも、弊害は「新課程へ移行する重要性に鈍感なまま華々しさを追求する」アプローチにある。

 

以上をふまえ、仮に、学校設置者や“有識者”が、こうした見識を備えていないのであれば、学校教育に関わる資格はないし、見識を備えていながら華々しさだけを追求するのであれば、もはや悪質というよりほかはない。

 

もし不勉強であったならば、最低限、旧課程と新課程の決定的な相違について、明快に語れるだけの見識は養ってほしいところである。

 

新学習指導要領の趣旨や内容に関する理解を深め、自走性が高まる教育課程の編成や運用に、覚悟をもって敢行する学校が、一校でも増えることを願ってやまない。