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Society 4.0 時代の元服

人口減少やら、消滅可能都市やら、限界集落やら、地域の消滅を憂う言葉が踊るようになって久しい。

 

いま私たちがキチンと認識すべきは、「地域が消滅の危機に瀕しているのは、何も今日が初めてでははい」という事実だ。歴史を紐解けば、民族・国・都市・町・村・集落‥が消滅した例は枚挙に暇がない。

 

ここに教育が関わっていると気づいたのは、あるヨーロッパ在住歴が長い方が発した言葉だった。曰く次世代の育成を怠った民族は歴史から消える運命にある」。

 

以後、何より「元服」に対する認識が変わった。古今東西、社会的な集団の持続可能性を高めるためにも次世代の育成が必要だったのだ。以下、イメージしやすいよう、少しスケールダウンしてみよう。

 

村が生き残っていくためには、どの時代も、外部環境に応じて村の生業を適合させていくことが必要だった。ただ、社会の変化が緩慢な時代、第一次産業を柱に、住民が代々その土地で生きている農山村には、さほど大きな変化は求められなかった。これに該当するのが Society 2.0(農耕社会)だ。

 

こうした農山村で生まれた者は、基本、先祖代々受け継がれてきた知識や技能を習得すれば生きていけた。ただ、村・一族・家としての生産力を高めるために子どもを一日も早く大人に育て上げる必要はあった。そのため、身体的に成長した十代前半の年代で、大人と共同作業を通して、大人から子どもに知識や技能が伝授された。そして、一人前の大人として村が承認・祝福したのが元服式だった。古今東西、15歳を元服年齢とする社会が多い理由も、この背景をもとに理解できよう。

 

ここで、覚えてほしいのは「大人になるための訓練 → 元服 → 大人として村に参画」というプロセスだ。この視点をもつと、18歳選挙権のどこに問題があるのか、一目瞭然であろう。戦後から今日までの間に「大人にする訓練の必要性」どころか「大人にする必要性」が忘れ去られてきたのだ。

 

以上の予備知識をふまえて、地方創生の問題を考えてみよう。まず、農山村に限らず、地方社会は今日どんな局面にあるのだろうか。

 

概ね明治~昭和の時代、日本全体としては Society 3.0(工業社会)にあった。 規格品の大量生産によって個人も会社も国も豊かになれる社会だ。ただ、その様相は都市部で顕著だった半面、地方社会は取り残される形となった。特に、地域や組織の運営における「排他的かつ前例踏襲的で長老の発言権が強い」傾向は「Society 2.0 時代のまま」といえよう。

 

平成に入ってから最も大きな変化は Society 4.0(情報社会)への移行だろう。インターネット社会の出現によって、知識の賞味期限は短くなり、「今まで通り」では成り立たない場面が増えた。代わって、新たな知識・知恵・価値・商品・サービスを生み出しつづける態度や能力‥端的にいえば「三人寄れば文殊の知恵」‥が求められるようになった。

 

これは地域づくりの世界では、「よそ者・若者・ばか者」をむしろ積極的に迎え入れ、新しい仕組みを創り出していくことに相当する。全国各地の事例に注目すれば、こちらに舵を切った地域では若者の流入による社会像に成功している場合さえあること、そして「今まで通り」で思考停止している地域では衰退が泊まらないことが分かるであろう。

 

では、Society 4.0 時代の人づくりに求められる要件は何か。地域の生き残りが「よそ者・若者・ばか者とともに知恵を生み出していけるかどうか」にかかっているのだとすれば、その地域に生まれ育った子どもや若者にも、当然その訓練が求められる。つまり、Society 4.0 における元服の要件は「地元の大人のみならず、異質な存在も迎えた場における対話を通して、自分自身や地域が生きていけるだけの何かを生み出していける」ことだといえる。

 

ここで特徴的なのは、Society 2.0 の大人は「先代から受け継いだものを(外来者を無視しつつ)そのまま子どもに伝える」だけで済んだのに対して、Society 4.0 の大人には「外来者や子ども・若者とともに新たな何かを創造しつづける」力が求められる点だ。

 

以上、Society 4.0 において次世代が元服できるかどうか、それは「大人の」対話性にかかっているということができよう。