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「ライフ&ワーク」バランスの視点からみる校則問題

 「ブラック校則をやってるなあ」とNHKを見ていたら、案の定というべきか、地元・岐阜県内の高校が登場。映し出されたのは、靴下の色に関する校則をどうするか、生徒会で話しあっているシーン。

 

 生徒が校則に関する議論で主張する自由や個性は、その方向に行き過ぎると「学びに向かう雰囲気」が損なわれます。ここで、それは「自分は縛りを緩められても自分を律していけるからよい」という問題ではありません。配慮のない生徒により集団の雰囲気が損なわれると、その生徒ではなく、雰囲気に影響されやすい生徒が犠牲になります。

 

 全ての生徒が学習環境に配慮して行動できれば問題はないのですが、多くの場合、それは困難。百歩譲って「その年」は共通理解があったとしても、歳月の経過とともに風化し、既得権益となり、後戻りができなくなります。

 教職員のいくらかは「ひとたび崩れた環境を立て直すのは至難の業」だと身に染みているため、「将来にわたって良好な学習環境を提供していきたい」と、自由化に対して慎重な態度をとることになります。決して変化を拒んでいる訳ではありません。

 

 では、自由や個性は阻害されてもよいのか。‥ この件に限らず、学校に関わる議論において残念でならないのは「どんな前提条件のもとで考えているのか?」を俯瞰的に自覚できていない点です。

 

 自覚のない前提条件とは「学校が生活の全て」という毎日です。たしかに、朝から暗くなるまで学校で過ごしていれば、自由や個性も欲しくなるでしょう。では「朝から暗くなるまで学校で‥」という生活は、現状はそうだとしても、普遍的な在り方でしょうか?

 

 仮に、誰もが「学校内&授業時間内=生徒=public」と「学校外&放課後=地域の若者=private」という二面性~多面性をもって生きていれば、すなわち地域で「自由を謳歌」「個性を発揮」できれば、ことさら「学校で自由や個性を存分に」という話にはならないと想像できるでしょう。

 

 そして、このような形で公私の線引きをするのであれば「登校は私服 / 登校したら制服に着替え / 終業後は再び私服に着替えて下校」にすればよいでしょう。「制服に個性は持ち込まない / 私服は思いきり個性を発揮する」。‥こうした「公私の切り替え」は現に社会人が行っていることです。

 

 このような視点をもつと、窮屈とか、息苦しいとか、居場所がないとかは、「学校の管理体質」の問題ではなく「学校がすべてで地域に生きていない生活スタイル」の問題だと理解できるでしょう。

 

 そもそも、学校というところは制度設計上「配置される教職員数は授業時間数に応じて決まっている」=「基本的に放課後の諸活動は教職員の業務として想定されていない」のです。それは「自由や個性を謳歌できる方向にしようと思えば教職員数を増やす必要がある=公立校なら増税」「税負担を抑制したければ自由や個性は折り合いをつける必要がある」構造になっていることを意味します。‥ つまり、この問題は「教員の働き方改革」とも関わっている訳です。

 

 息苦しさから解放されたい、自由や個性を渇望したい、とする欲求の根元は、地域が参加や表現の場になっておらず、高校生なら「学校漬け」、大人なら「職場漬け」という歪みにある。‥ 校則問題を窓に、そんな現状を俯瞰していただけると幸いです。