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長引く?臨時休校後を見据えたオンライン化を

はじめに

新コロナウィルスの感染拡大に伴う臨時休校によって、高校の授業をオンライン化する動きが急激に進行している。そして、多くは「教室の授業を zoom 上で再現」することをめざしている。たしかに、臨時休校が一過性の措置であったならば、緊急策として可とすべき部分もあろう。

 

では、中長期的な成り行きはどうだろうか。仮に大胆な外出自粛策が奏功して一時的に感染拡大を抑止できたとしても、緩和によって第2波~第3波が襲来したり、校内で感染者が発生する度に臨時休校に追い込まれたりする事態は、ふつうに想定されるところである。それは、高校が数ヶ月前までのような形態の授業を、教室で安心して実施できるまでには、数ヶ月~1年以上の歳月を要する懸念性もあることを意味する。

 

まず、付け焼き刃的なオンライン対応を続けると、教師も生徒も疲弊し、何より十分な教育効果を期待できない。それ以上に重大なのは、高校教育を改革するチャンスを潰してしまうことである。

 

以下、高校教育改革の潮流を俯瞰しつつ、どのようなオンライン化に活路があるか、考えてみたい。

 

高校教育改革の潮流 ‥ Society 3.0 から 4.0 へ

 

はじめに、Society 1.0 から 5.0 の用語を確認しておこう。1.0は狩猟採集社会で、日本では縄文時代が該当する。同様に、2.0は農業社会で、弥生~江戸時代。3.0は工業社会で明治~昭和、4.0は情報(インターネット)社会で、概ね平成時代以後。そして5.0はAI社会で、令和には訪れるかもしれない時代だ。

 

このうち、Society 3.0(工業社会)は、規格品を大量生産することによって個人も会社も国も豊かになれる社会だ。ここでは人材も「規格品を大量生産」するのが合理的で、個人の興味関心やこだわりは封印し、与えられた学習課題を「忍耐力を発揮し」「努力して」「速く正確に」習得することが求められる。重要なのは「学校制度は Society 3.0 を背景に構築された仕組み」である点だ。

 

つづく Society 4.0(情報社会)は、インターネットによって知識のもつ価値が瞬く間に賞味期限を迎えることから、新しい知識・知恵・価値を生み出し続けることが求められる社会だ。ここでは“三人寄れば文殊の知恵”に加われる力、すなわち「一人ひとりが突き抜けた上で、固有の才能を周囲との対話や協働によって最大限に発揮できる力」が求められる。

 

そしてそのためには、一人ひとりの興味関心、いや、パッション(情熱)に基づく、一人ひとりに適合した学び ‥ 公正に「個別最適化された学び」 ‥ が必要になる。

 

インターネットの普及による学習環境の変化

ここで改めて「学校教育の仕組みは Society 3.0 を背景にした時代的な産物」であり、必ずしも普遍性をもたない点を確認しておこう。

 

インターネットがなければ、教師と生徒が空間と時間を共有し、教師が生徒に対して知識や技能を直に伝達しなくてはならない。また、限られた教師数で最大限の効果を上げる効率性を追求すべき必要性から、1人の教師が指導しうる生徒の最大数が検討され、おそらく「目も心も届く空間に“密集”させた規模」として40名という線に落ち着いたに相違ない。

 

これは生徒の視点に立てば、同じ学齢期の「固定的な顔ぶれ」とともに「同じ空間で 同じ時間に 同じ内容を 同じ進度で」「目前にいる教師から」学ばざるをえない制約があることを意味する。

 

対照的に、インターネットがあれば、原理的には「生徒は教師と同じ空間・同じ時間を共有する必要性が低くなる」メリットが発生する。それは、教師の立場からは「数百~数千人の生徒に対して講義を届けられる」可能性が、生徒の立場からは「画面の向こうで授業をする教師を多数の中から選べる」「より多様な顔ぶれと学べる」余地が、それぞれ広がったことを意味する。また、オンデマンドなら、再生速度の調整や停止、リピート等も可能だ。

 

これは「各生徒が任意の場所・時間に、自身に合った教師・生徒集団・内容・進度の学びを選択・構成できる」可能性が広がったことを意味する。

 

もちろん、それはあくまでも「原理的」な話であり、実際に学びが機能するためには、種々の条件整備が不可欠なのは当然である。

 

新コロナウィルスの感染拡大に伴う学習環境の変化

もともと上記のような潮流があったところに、今回の「新コロナウィルスの感染拡大」が起こり、生徒や教職員の感染リスクを軽減するために、高校は様々な制約を受けることとなった。結果、学校や教師にとっての「教育環境」、生徒にとっての「学習環境」は激変した。

 

生徒の登校が許される学校でも、「密集・密接」を回避すべき必要性から、学年集会等の大規模な集会が難しくなったのはもちろん、教室においても、机間を離したり、生徒どうし対面して話し合うのを止めたりすべき事態となっている。‥密集を前提に設計された制度や教室なので、もはや以前のような授業を安心して展開できようはずはない。

 

加えて「臨時休校」である。これは、これまで「学びの連続性」を支えてきた「登校の連続性」が揺らいだことを意味する。また、仮に新年度1回目の臨時休校から明けたとしても、登校を続けられる状況が安定的に続く見通しは持てず、「学びの連続性」は不安定になる事態も想定される。

 

「目が届く(≒教師のコントロールが効く)範囲に生徒を集結させる」という、従来の授業が成立する土台が脆弱になった点も見逃せない。

 

ここで言及しておくべきは、「オンラインを土台に構築したシステムを一貫して運用する」のと、「学校を土台に構築し、休校時のみオンラインに切り替える形で運用する」のとでは、オンライン期間に提供できる学習プログラムの品質や安心性に大きな開きが生じる点である。しかもそれは、学校で提供される部分にも影響を及ぼす。

 

しかも、その開きは休校期間が長期化するほど顕著になる。それは、リアルな高校はリアルであり続けられる間は相応のパフォーマンスを発揮しうるが、臨時休校に追い込まれる毎に、N高校等、広域通信制の高校に対する存在感が低下していくことを意味する。

 

オンライン化 ‥ 残念な方向性

以上の議論をふまえると、いま多くの現場で進みつつあるオンライン化が抱える問題点が浮き彫りになり、あわせて、リアルな高校が打つべき手立ても明らかになる。

 

そこで、まずは「残念な導入パターン」に注目してみたい。それは「旧来の学校がもつ常識を無意識に移植する」もので、具体的には「各教科担任が」「時間割に従って」「クラス単位で」「一斉講義式の」授業を進行する例が該当する。

 

 

リアルな教室を zoom等によってオンラインに持ち込む場合、残念ながら、教師の目は40人全員には届かず、教室のようにはコントロールも効かない。

 

前年度からの連続性によって、教師と生徒、生徒間に十分な関係性が醸成されていれば、ダメージは最小限に食い止めることもできよう。しかし、新入生や転入教員等、関係性がほとんど醸成されていない場合には、ダメージは無視できなくなる。リアルな空間や時間の共有により得られる土台を前提とした授業は、オンラインでは難しくなるのだ。

 

それ以上に、このようなオンライン授業をいくら続けたところで、Society 4.0 における学びに必要な「個別最適化」には一歩も近づけない点は、長期的にみると極めて弊害が大きいといえる。

 

さらに、教師の側からすると「1教室分の40人と言わず、数百~数千人にも届けうる」メリットを活かせないし、生徒の側からすると「自分に合った学びを提供してくれる教師を選べる」メリットを活かせない。

 

このような観点に立って県レベルで俯瞰すると、同一科目の同一内容について、40人にさえ届かないスタイルの授業を、県内数十名規模の教師が展開し、ゆえに通信インフラに大きな負担を与えるにもかかわらず、多くの生徒が退屈するか取りこぼされるかしていく状況を容易にイメージできる。

 

こうした方向に走り続けるとするならば、一体それは、誰のため、何のためなのであろうか?

 

オンライン化 ‥ 期待される方向性

では、どうすればよいか。

 

リアルな高校を預かる者として、真っ先にしなければならないのは「リアルな高校だからこそ提供できる学びとは何なのか?」を探り、本質を明らかにすることである。

 

リアルな学校‥すなわち「同じ空間・同じ時間を共有できる機会」の舞台‥にしか提要できない価値は数多くある。しかし、学校を普通に運営できていれば普通に発揮できたパフォーマンスが、臨時休校によって大きな制約を受けることになってしまった。

 

となれば、もはや「限られたチャンスを最大限に活かす」しかない。そのためには、Society 4.0 における学びとは何かを踏まえつつ「リアルな学校ならではの価値」を焦点化し、限られた条件下で最大限に発揮していく必要がある。

 

その上で、「自宅学習に委ねうる部分を自宅学習に委ねていく」手立てを構想する。ここには、紙ベースの教材、CDやDVD等の媒体、テレビやラジオによる放送番組等の活用も含まれ、それと並列あるいは組み合わせる形で「オンライン学習」の活用が想定される。

 

この吟味を経た上で、「オンライン化しても支障ない活動」や「オンライン化した方がよい活動」をオンライン化する訳だ。しかも、オンライン化する効果を最大限に発揮できる形で。‥それが今日の高校に期待される姿勢だ。

 

 

ここから先は、県や高校のレベルで「教師集団が最小限の労力で最大限の指導効果を発揮できる仕組み」や「生徒集団が最小限の負担で最大限の学習成果を上げられる仕組み」を追求していく必要がある。後者については SDGs の観点から「誰ひとり取りこぼさない指導」の追求も欠かせない。

 

となると、「より広い範囲」で「よりキメ細かく生徒の多様性に応えられる」仕組みとして、県や高校のレベルでオンデマンドの仕組みを構築する重要性が浮上する。これで、学習に対する自立性が高い生徒層、さらなる高みをめざす生徒層に対して自走を促す訳だ。

 

そしてその上で、自立性が育ちきっていない等、配慮を要する生徒に対して、個別または小さなグループに対して、チャットや zoom 等を活用してフォローにあたる。

 

実は、自立性の高い生徒には「個人またはグループを単位に自走」させ、配慮を要する生徒には「教師が個別的に寄り添う」形の展開は、既にリアルな教室で数々の実践例があり、特に新しいものではない。

 

また、このようなオンライン学習は、既にN高校等では普通に提供されている。その点を常に頭の片隅に置いておく必要がある。

 

未来指向で新設された公立広域通信制高校の例

これからどのような社会が到来するのか、そしてその社会を生きていくために(或いは よりよい社会を創り出していくために)どのような資質・能力の育成をめざせばよいのかを真摯に探究し、より深く洞察し、新しいタイプの高校として設立されたのが、長野県長野西高等学校の望月サテライト校だ。

 

高校生にとって最も重要なのは、自分らしく地域と関わって主体性・社会性・探究力・創造性等を身につけることである。それには昼間の時間を自由に使える必要があることから、時間割を自分でカスタマイズできるようにする。何となれば、地域で思う存分チャレンジできるよう、投稿するのは週に1日から5日の間で自由に決めてよい。

 

では、教科の学習はどうすればよいか。それには、EdTechを活用すれば良い。そうすれば、同一教材を同一ペースで学ぶ制約から解放され、自分に合った最適な学びを追求できる。

 

従来の通信制高校に対するイメージを一変させるスタイルだ。さらに注目すべきは、これが県立高校である点だ。未来指向の高校は、既に実在するのである。

おわりに

これから、オンライン化を進める道では幾多の困難に直面することだろう。しかし、その苦難を経験したればこそ、リアルな学校でしか提供しえない学習活動とは何か、より鮮明に自覚でき、組織的にも共有できるようになるに相違ない。

 

つまり、今日のピンチは、リアルな学校がリアルな学校として一層のパフォーマンスを発揮していく上で、大きなチャンスなのだ。

 

だからこそ、2年後に迫った新学習指導要領の導入を見据えつつ、学校を舞台とするリアルな学習活動の充実にも、教師のマンパワーを十分に投入していく必要がある。

 

その上で、リアルとオンラインを地域や学校の実情に応じてハイブリッドにしていくのがよい。今回のような臨時休校を始めから織り込んで計画を立て、運用を進めれば、ダメージを最小限に抑えつつ、パフォーマンスを最大化していくことが可能になる。

 

この投稿をご参考に、多くの高校で「未来につながるオンライン化」が進むことを期待したい。