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専門家を大切にする社会への転換点に

医療スタッフを守り切る重要性

 最近、医療現場から届くただならぬ悲鳴に接する機会が激増している印象がある。たしかに「異常事態だからこそ」という一面はあろう。しかし、このような事態が起きている一因が、一定数の人々に「自分の行動と社会の危機とのつながりを想像する力が欠如している」点にあることは間違いなかろう。典型例は、3月初旬、臨時休校に入って渋谷のカラオケに繰り出した高校生や、4月4日、巣鴨地蔵通りの縁日に繰り出した老人たちだ。

 

 このような行動によって、この人たち自身が苦しむ「自業自得」なら、まだよい。ところが現実には、その延長線上で誰か他の人が感染し、患者として苦しみ、医療スタッフが磨り減っていく、という事態が既に起こっている。そして、医療スタッフが本来のパフォーマンスを発揮できないがゆえに、平時なら受けられる診療を受けられず、症状が悪化していく人々も、間違いなく増えている。

 

 この事態から学ぶべきは「医療の専門家を守る努力をしない限り、質の高い医療を、本当に必要とする患者に届けられない」事実だ。それは、患者にとっても医療スタッフにとっても不幸であることは、言うまでもなかろう。 

それが必要なのは医療の世界だけではない

 この note は東京都内の看護師が発信したものだが、特に次の部分から「深い悲しみや憤りの本質は、教師と全く同じではないか?」と思った。

 

“「自分の命が軽視されている」ことにようやく気付いた。なんだこれは、なんだこれは、と混乱し続けていたがそういうことなのだ。今、この国から、医療職は「死んでもしょうがない」と思われている。そういう扱いを受けている。もちろん、医療職だけではないだろう。分かっている。 ‥(中略)‥ 「自分の命が軽視される」という初めての体験の渦中で新鮮な動揺と怒りの中にいる。自分の“医療従事者”としての核が、揺らぐのを感じる。”

 

 違いがあるとすれば次の2点だろう。1つは、教師の場合には「命」というより「尊厳」という表現の方が適切かもしれない点。もう1つは、この看護師は今回の事態に直面して始めて感じたであろうのに対して、教師は平成の30年間をかけてジワジワと感じてきた点だ。

 

 たしかに、教師の場合には「過労死ラインを越える勤務状況」が近年ようやく社会的な認知を受け、働き方改革も進んでいるところではある。しかし「自分の命が軽視されている」実感が軽減されたかといえば、そうではない。

 

 また、たしかに教師の中には、評価に値しないどころか、避難を受けるべき者も一定数存在しよう。しかし、それゆえにこそ、教師たる気概や力量をもって子供の成長を支えてきた先生方の苦悩は深い。姿勢や力量を真っ当に評価してもらえれば、子供も幸せ、自身も幸せなのに‥。

 

 ちなみに、教師に降ってくる“マスク”は、“○○教育”や“△△改革”の類だ。

 

 そして今日、同じ構図は、医療や教育に限らず、非常に広い範囲に見られるのではないだろうか。

専門性を軽視する風潮が次世代に及ぼす影響

 それが典型的に現れる場面は「就活」だろう。書類や面接において「大学で何をどのようにどこまで学んだのか?」を丁寧に評価する企業は、いったいどれほどあるだろうか? 採用する側に「学びを究めた」経験者がいないから「学びを究めた」若者の価値が分からない。正当に処遇されないとなれば「学びを究める」修士課程や博士課程に進学しようとは思わない。

 

 翻って、世界標準は「高学歴者の優遇」である。これで国際競争力を保てるはずはない。体育会系的な根性論で業績を拡大できる時代は、昭和で終わっているのに‥。

 

【参考】低学歴化進むニッポン、博士軽視が競争力を崩壊させる(河合薫氏)

 

 このような現状をふまえて「学びを究めて専門性を高めても真っ当に評価されない」社会であると感じた子供や若者は、果たして「社会のために学び究めよう」という気持ちになれるだろうか?

 

 評価されるのが「味や健康」ではなく「カロリー」なのだとしたら、「味や健康」を追求するだろうか? ‥このような社会における「学力向上」とは、いったい何者なのだろうか?

 

 そして「カロリー・アップ」を強いられた次世代は、「学びを究める」価値を理解して「味や健康」を追求できるだろうか?

 

 今日の事態に際して、「学び究める」姿勢や能力を持った者は(傾向的に)感染の拡大には加担しないはずだ。そう、お分かりいただけるであろうが、次世代に対してアンバランスに「カロリー・アップ」を強いてきたツケが、冒頭に述べた若者や老人の姿として発現している部分もある訳だ。そしてそれが「学び究めた」専門家をどんどん窮地に追いやっていく‥。

 

 「専門性」や「学び」を軽んじる風潮を放置すると、次世代は「学び」から逃走し、専門家が育たない(あるいは潰される)社会へと劣化する。‥私たちが今回の事態から学ぶべきは、この点ではなかろうか?

 

しかし、チャンスはある!

 半面、このような事態のおかげで、平時に比べて「私たちは専門家の高い倫理観や専門性のおかげで守られているのだ!」と実感できるニュースや投稿に出会う頻度は格段に高まっている。

 

 何より貴重なのは、厳しい現場を献身的に支えている専門家に対して「謝意を伝えよう」という動きが広がっていることだ。それは間違いなく、次世代にも届いている。

 

 このような観点から、私自身が感銘を受け、「多くの高校生にぜひ見てほしい!」と思ったのが、先日の「情熱大陸」だ。

 

情熱大陸 #1098「ウイルス学者・河岡義裕」(2020年4月12日(日)放送)

 

 河岡教授の姿が高校生の心に染み入るのは間違いない。「4月19日 22:59まで無料視聴」可能とのことだが、高校生のため、ぜひ無料視聴できる設定を継続していただきたいところだ。

 

 これは象徴的な例だが、「より市井の人々に近い具体例」は随所に見られる。

 

 今日、この危機にあっても、感染拡大を最低限に食い止め、皆が元気な自治体に共通しているのは「各分野の専門家や市民が、自ら一歩前に踏み出し、互いに敬意を払いあい、協力しあい、各者の力量や持ち味を最大限に発揮しあっている」点だ。

 

 例えば、岐阜県飛騨市。まず、4月16日の段階で 新型コロナウィルス対策本部会議を 36回も開催している市長のリーダーシップにも驚かされるが、観光客の激減によって苦境に立たされた地元の飲食店を救いたいと「飛騨市まるごと職員食堂キャンペーン」を提案したのは市職員で、しかもこれは即座に実施された。

 

 ほかにも、物産展が中止になった損失を挽回しようと民間有志がオンライン物産展を実行したり、臨時休校による弊害を克服しようと地元企業がオンライン学習サイト「ひだびとオンライン」を開設したりと、誰もが事態の打開にむけて「その人らしく」実力を発揮している。

 

 このような形で「身近な大人がカッコよさを讃え合っている」様子を知れば、次世代は自然に「自分らしく才能を伸ばす」ことを目指すようになるだろう。また、こうした学びを続けた若者には「専門性を尊重しあう態度」が自然に身につくであろう。

 

 ここで重要なのは、専門性に対する敬意は「どこか遠くの誰か」によって生まれる部分もあるだろうが、それ以上に「身近な地域で私たちが」生み出していくべきものである、という点だ。

 

 すなわち、感染拡大を抑制するためにも、今日的な苦境を脱するためにも、次世代の育成をはかる上でも、飛騨市のような動きを「身近な顔の見える地域で」起こしていくことだ。

 

 今回の危機が、専門性や学びの価値に対する社会的認識が高まる転換点となることを、願ってやまない。