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5月を捨てる高校に未来はない

はじめに

 ゴールデンウィーク後、かねてからの懸念が現実になりそうで心配しているのが、「学びの土壌」に対する社会的な理解不足に起因する格差の拡大だ。

 

 学校が全ての生徒に学びを保障するには、種々の関係性を醸成したり、落ち着いた環境を整えたりする等、「学びの土壌」を充実することが欠かせない。それを怠ると、自覚や自律性が未成熟な“弱い”生徒から順に、学びから脱落していくからだ。

 

 それゆえ、その重要性を熟知している教師は、これまでも学校経営や学年運営で「学びの土壌」づくりを細心の注意を払ってすすきた。それでも、夏休み等は心配が拭えない。教師の目が行き届かず、何か小さな異変を感じてもすぐに対処できず、せっかく丁寧に積み上げてきたものが崩れかねないからだ。

 

「学びの土壌」を充実する重要性

 私自身が学年主任だった頃、ある担任からの提案で実現した施策がある。「部活動対抗ウルトラ月例テスト」だ。

 

 この日は当初、各教室でペーパーテストを普通に実施する計画だった。他方、夏休みの学習を支える仕掛けづくりが十分に進んでいなかった。「学習を支えあう関係性‥部活動しかない」と、思案の末に浮上したのが、同じ部のメンバーどうし協力しあい、ゲーム的な企画だった。各教科とも、教養クイズ系の問題を作問。ここには「学びってのは本来とても楽しいものなのだ」と感じてほしい願いも込めた。

 

 当日は広い体育館で部活動ごとに分かれて展開。生徒たちは期待を超える集中力を発揮してくれた。


 この他にも可能な限り「あの手この手」を打ち、何とか、夏休み明けを落ち着いた状態で迎えることができた。

 

 実は、どの高校でも、「学びの土壌」という言葉では表現していないものの、授業を軸とする学習活動を実りあるものとするために、このような努力を重ねている。部活動や生徒指導も、この文脈上で一定の役割を果たしている。学校とは、プロ集団が「土壌づくり」も含めて教育活動を組織的に展開している場なのだ。

 

学びから脱落する生徒が多発する構図

 こうした事例に照らして、今回の臨時休校を捉え直してみよう。

 

 通常、3月は年度末業務で追われる時期ではあるものの(高校入試に係る期間を除けば)多くの生徒は部活動等で登校しており、何らかの手は打てる。いや、大会で有終の美を飾ろうと練習に勤しむ新3年生が「頑張る空気」をつくってくれる。例年なら「学びの土壌」が機能している訳だ。

 

 ところが、今年はそれが唐突に寸断されてしまった。それによって授業が計画通りに進められなくなってしまったのはご存知の通りだが、実はそれ以上にダメージが深刻なのは「学びの土壌」の方だ。しかも、学校に集まって活動できないため、学校主導による再生が極めて困難な状況にある。

 

 では、その先にある将来は何か。「学び」から脱落する生徒の大量発生と、それに起因する格差の拡大だ。では、それを食い止めるために必要な考え方や手立ては何か?

 

 実は今、私たちには「そもそも学校とは何のために存在するのか?」という本質的な問いが突きつけられている。そして、行き着いた理念や哲学の深さによって、教師集団という限りある資源の分配方法が決定的に異なってくる。

 

 仮に高校や教師のホンネが「従来型のペーパーテストで得点できる力をつけるための手法を、担当するクラスの生徒に対して平等に伝授し、一定レベルまで到達できるよう努力する姿を示す」ことだったならば、「zoomに向かって教室と同じ授業をしたり、課題を大量に印刷して自宅に郵送したり、探究や地域連携を真っ先にカットしたり」という対処になる。

 

 実際、多くの高校で、多くの先生方が、この方向で懸命に努力されている。しかし、貧弱な情報通信環境で慣れないオンライン授業を強いられるとなれば、いつも通りに成果を収められないのは不可避。つまり、この考え方、この手立てだと、ここが限界なのだ。

 

 では、どうすればよいか?

2~3年生に活かしうる、既にある「学びの土壌」

 少し考えれば分かることなのだが、既に一定の土壌がある2~3年生と、例年のような土壌を現段階で醸成できていない1年生とでは、期待される対処は大きく異なってくる。

まず、2~3年生について考える。

 

① 既に自走している2~3年生

 適宜の「道標」を提供して、適宜の頻度で進捗状況を確認する程度にとどめる。また、必要性に応じて必要があれば「学びのコミュニティづくり」を支援する。‥あえて「手放す」

 

② スイッチさえ入れば十分に自走できる2~3年生

 「学びの土壌」には「安全・安心」も含まれる。「zoom朝の会」等を通して「影響力をもつ教師が熱量や想いを届ける」ことで学びに向かえる生徒は、この程度でとどめる。

 

③ 自走性は不十分だが、支えあいが機能する集団(同一の部活動等)に属している2~3年生

 先述した例のように、部活動ならではのチーム性を活かし、弱い生徒を支える。この層には、新しいクラスや担任よりも部顧問の方が影響力を発揮できる可能性が高い。

 

④ 自走性が乏しく、支えあいが機能する集団に属していない2~3年生

 新しいクラスの担任ではなく、該当生徒に「最も関係性が近い」教師が小グループまたは個別にサポートする。なお、各生徒の情報通信環境によって、デジタルとアナログを使い分ける。

 

 上記のうち、②~③が既存の関係性に基づく「学びの土壌」の活用にあたる。

 

1年生のために急ぐべき「新たな土壌づくり」

 続いて、1年生について考える。重要な視点は、1年生は2~3年生に比べて「学びの土壌」が極めて貧弱な状況がつづく点だ。

 

 想像力を働かせればすぐに分かることだが、学びからの脱落を余儀なくされた1年生は、臨時休校中の現段階でも相当な比率にのぼっているはずだ。では、学校が再開した後、回復はどこまで可能だろうか。

 

 各教室には、学習面で大きく後れをとった生徒が相当な比率を占めているだろう。しかも、そうした生徒を支える土壌は十分に醸成されていないし、醸成していける余地も乏しい。それは、教師の時間が分散登校への対応に割かれ、生徒を学校に長時間とどめて指導を徹底することも難しく、部活動等のリアルな活動も十分に提供できない等の制約がつきまとうからだ。

 

 となれば、学習指導以外の対応に忙殺されるのは必然の成り行きといえよう。そして、このような形で、教師も保護者も「学びの土壌」を整えるべき重要性を痛感することになるであろう。「学びの土壌」づくりは重要性も緊急性も高い施策なのだ。

 

 とはいえ、今の局面において「学びの土壌」を学校の力だけでつくるのは無理であり、嫌でも保護者や地域の力を借りねばならない

 

 というと、すぐさま「保護者も地域も今はそれどころではない」という声が返ってくる。たしかに「学校のために」という文脈で話を持ち出せば厳しかろう。しかし「助け合っていきましょう」という文脈なら話は別だ。

 

 今日「助け合い」の重要性は誰もが実感している。そして、安全を確保できる範囲やオンライン上に限定しても、また入学間もない1年生であっても、高校生にできる貢献は山ほどある。結果、生徒も学校も平常時にまして周囲から感謝され、存在価値が認められ、学校の教育活動に対する理解が深まり、協力も集まってくる。

 

 探究にしても、学校再開後は諸教科の学習に注力すべき状況になることを思えば、むしろ臨時休校中の今こそチャンスだといえる。

 

 各生徒が現段階で描いている進路に関連しつつ、「いま医療現場は何で大変な思いをしているのか?」「学童保育を早期に再開するのは是か否か?」「疫病を扱った文学作品の共通点や相違点は何か?」等のテーマを例示すれば、時間の融通が利く分、じっくり取り組むことができる。

 

 そう、地域連携にしても探究にしても、今は千載一遇のチャンスなのだ。

急がれる「使命や業務の再定義」と「教職員の再分配」

 以上の議論をふまえて、「1年生と以後の学年」「学校の将来」を視野に入れたとき、教師集団という限りある人的資源を、どのような方針のもと、どのように分配していけばよいのだろうか?

 

 基本方針は「生徒の自走性を高め、フリーハンドを増やす」ことだ。

 

 具体的には、まず、自走性の高い生徒むけには「オンデマンド型」のオンライン学習を進めていけるよう促す。そして、他の生徒も順次こちらに誘導していくのだ。これは、補完性の原理に基づけば「自助」に相当する。

 

 その際、先述の通り、既存のシステムやコンテンツを使えるならば、できるだけ活用する。また、コンテンツを新規に作成する必要がある場合には、個人あるいは学校ごとではなく、都道府県レベルや国レベルでライブラリを用意することが望ましい。

 

 それは決して、一握りのカリスマ教師に授業を委ねることを意味するものではない。各教師が得意とする単元や項目のみ作成して登録し、多くの生徒が共用できるようにすれば、各々が最小限の労力で最大限の貢献を成していくことが可能になる。また、最も響く考え方には個人差があるので、同一の単元や項目でも、コンテンツの多様性が高いほど、生徒により大きな恩恵を届けることができる。

 

 リアルな学校や教室の発想で「割り振られた生徒に自分の教え方でライブの授業をする」のは、効率の面でも効果の面でも、十分な成果を達成しえない。学校や都道府県を越えた協働が期待される。


 続いて着手すべきは、各校で「生徒をゲストからホストに」シフトしていく、現場密着の施策だ。

 

 現状でも、一定数の2~3年生は得意科目の補足解説を務めることは可能だ。そのため、教師がオンデマンドやライブで一定の解説を行った後は、過度な負担がかからないよう分担や分散化に努めた上で、1年生に問題解説を依頼する。その際、YouTubeかzoomかは、可能な選択を行う。

 

 これを呼び水的に展開した上で、1年生から講師役を募り、実際に務めてもらう。これは、補完性の原理では「共助」に該当する。

 

 その上で、力量をもつ教師ならではの指導を必要とする生徒に、デジタルまたはアナログにて、キメ細かく関わっていく。これは、補完性の原理では「公助」に該当する。

 

 

 そして、これらの学習指導と並行して進めるべきが「学びの土壌づくり」であり、その第一歩が「家庭や地域との関係性醸成」である。

 

 各ステークホルダーの「困り事」や「他者のために役立てうる資源」を皆で相互に共有できれば、どんな助け合いが可能か、自然に浮かび上がってくる。そのための対話は、決してリアルに集まる必要はなく、オンライン上でも十分に可能だ。

 

 次の一歩は、オンライン上の探究も含めた、プログラムづくりだ。もちろん、それを教師だけで進める必要はない。今日、オンライン上に漕ぎ出せば、自校を助けてくれる外部団体・外部人材の幅は飛躍的に広がる。その中から、容易に信頼関係を結べる団体や個人を選び、委ねていけば済むのだ。つまり、ここでも「教師だけで抱え込む」在り方から「外部に委ねて手放す」在り方へのシフトが求められる訳だ。

 

 ともあれ、教師の分配は、大局観をもった上で、一連の施策をバランスよく展開できるように進めていくことが期待される。

おわりに ‥ 5月を捨てる学校に未来はない

 高校が家庭や地域との関係性を醸成する上で、今は千載一遇のチャンスだ。それは、強力な外出自粛要請によって、自宅あるいは地元に籠もっている比率が高く、オンライン上ならば必要な顔ぶれが容易に揃うからだ。もし、この機を逸し、経済活動の再開によって人の行き来が始まったならば、こうはいかなくなる。

 

 興味深いことに、今この瞬間も、私の周囲には両極端ともいいうべき動きがある。一つは「リアルに動けないからオンライン上に活動のフィールドを移し」「外出自粛要請で皆が容易に集まれるメリットを活かして」地域的な制約を超えた協働を前倒しで進めている人たち。もちろん、既存の計画はオンライン上で粛々と進めている。

 

 もう一つは「リアルに動けないから思考も行動も停止し」「在宅勤務で全ての関係者を集められないから種々の会議をコロナ終息後に延期」している人たちだ。

 

 もう少し危機感を持っていただくために、より具体的に申しあげよう。上記の二極化は「高校の間ではもちろん、都道府県の間でも起こっている」と。リトマス紙は簡単だ。種々の会議を「オンライン上へ積極的に移行」しているか「コロナ終息後に延期」しているかを調べてみるだけでよい。

 

 両者の差、すなわち「5月をどう過ごすのか」は高校の未来を大きく左右する。そして残念ながら、過去の単純な延長線上に未来はなく、もはや逃げ切ることもできない。

 

 ともあれ「これからの社会を担う次世代はどうすれば育つのか?」につき、深く学んで来なかった大人、この期に及んで学ぼうとしない大人が不相応な立場に残り、誤った判断を下すと「前途ある多数の高校生が置き去りになり、本人の責によらない深刻な格差が固定化する」のは間違いない。

 

 古より「戦略の誤りは戦術で補い難し」という。将が戦略を誤ると、兵は奮戦及ばず討ち死にし、民も犠牲になる、という戒めだ。高校の場合、意思決定層が今月の戦略を誤ると、教師に多大な負担がかかり、しかし努力は報われず、生徒の将来も奪われる。高校を預かる皆さまには、その認識をもって「明日」に備えていただきたい。

 

 関連して、これほどデリケートな経営が必要な局面に「9月入学」が加わると何が起こるのか。もはや補足する必要はなかろう。それと引き換えに断行すべき必要性・合理性・倫理性が伴っているのか、深く学んだ上で胸に手を当ててみるのがよかろう。

 

 5月中に新たな「学びの土壌」づくりを進めた高校は伸び、怠った高校は沈む。ラストチャンスをつかむ高校が、1校でも増えることを願ってやまない。