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分岐点 ‥ 過去に戻るか・未来に進むか

 これまで「臨時休校に対する抜本策は、長年にわたって丁寧に積み上げてきた高校教育改革と同一の方向性にあることから、長期的な展望に照らして対策を講じるべき重要性や、臨時休校を追い風に高校教育改革を推進できる可能性がある」構図について、繰り返し強調してきました。

 

 ところが、予想通りというべきか、残念ながら、昨日オンライン上で開催された研修会や会議の席において、現場に「やっと学校が再開する元に戻れる!という空気が漂っている実態が、相次いで報告されました。

 

 のみならず、昨今、思いつきの域を出ない「9月入学」が強行されようとしています。

 

 こうした動きに危機感を強め、方向性や優先順位について「より適切な判断」をしていただけるよう、「今は、過去に戻るのか、未来に進むのか」の分岐点にあるのだと分かる図を、改めて作成しました。ご活用をお願いできましたら幸いです。

 

 なお、図中にある「学習継続計画」については、以下のリンク先にある「岩本悠委員提出資料」の p.10 をご覧ください。

 

■ 中央教育審議会 初等中等教育分科会「新しい時代の高等学校教育の在り方ワーキンググループ(第7回)」配付資料岩本悠委員 提出資料

 

今は「過去に戻るか、未来に進むか」の分岐点
上掲の図を PDF化したものです。
200524_turning_point.pdf
PDFファイル 658.8 KB

(YouTube)2020.7.29.追補

(解説文)2020.6.14.追記

■ 教育先進国とは、遠い昔話

 

  先般の臨時休校は、わが国の教育が他国と比べてどれほど後れをとっているか、白日の下に晒す機会となった。さらに残念なことに、登校再開後、小中高の校種を問わず、後れを自覚して教育改革を前に進める気運はほとんどみられない。むしろ多くの現場では「これで元に戻れる!」という安堵感さえ漂い、「授業の遅れを挽回するためには、日々の授業を急テンポで進め、土曜日も登校させ、夏休みは短縮しないといけない」という対応がとられようとしている。

 

 これを放置すると、当分の間、日本の教育が国際標準の域に追いつくチャンスは失われ、競争力がさらに低下し、地域の衰退が加速するのは不可避である。

 

  教育の後れを理解するためには、インターネットの普及によって、世界は Society 3.0(工業社会)から Society 4.0(情報社会)へと移行した点をキチンと理解する必要がある。

 

  Society 3.0 は、規格品を大量生産することによって、個人も会社も国も豊かになれた社会だ。この時代には、与えられた仕事を速く正確にこなす規格品的な人材が重宝されたため、生徒を社会から遮断し、興味関心を封印し、学校が生徒を管理し、全員に対して同じ知識を注入する教育が許容された。

 

 しかし、インターネットの登場によって、従来の教育はむしろ仇になった。あらゆる知識は猛烈なスピードで伝わり、アッという間に価値を失うことから、新たな知恵を生み出す作法として「三人寄れば文殊の知恵」が重要になったのだ。その際、三人が似たり寄ったりだったら価値の高いアイデアは浮かばない。各々が個性を徹底的に開花することが必要なのだ。

 

それには、興味を持てないことに我慢を強いるよりも、「おやっ?」「楽しい!」と感じたことをとことん「探究」させる方が適切なのは明らか。ここで、生徒の興味は一人ひとり異なるため、より多くの生徒が「これだ!」と思えるテーマに出会えるようにするには、学びの場を地域へと広げること、すなわち「生徒と社会をつなげる」ことが重要だ。

 

 そして、ひとたび生徒が動きはじめたら「挑戦に伴走」することが期待される。このように、その時代に最適な教育像は、インターネットが普及する前後でこれほど違っている。対比すれば「夢中は努力に勝る」となるだろうか。

  

■ コロナ対策をテコにして教育改革を進める可能性

 

  文部科学省も、この方向に急ピッチで教育改革を進めてきた。高校に関していえば、新しい制度で大学入学者選抜が始まるのは現・高3生から。新しい学習指導要領が導入されるのが2年後の2022年度。急速な改革に対して、現場は過去の成功にしがみつきつつも、それなりに歩みを進めていたのだが、第1波に伴う臨時休校によって大半は改革がストップ。それどころか「過去に向かってダッシュを始めた」感さえある。

 

 実は、第2波に備えるには、むしろコロナを理由に教育改革を推し進めることこそ必要だ。形式的な平等性にこだわって、大人の都合を前面に出した一斉授業を展開すると、脱落する生徒はおそらく多発する。また、生徒の依存度が高まり、次の臨時休校に入った時に忙殺される懸念性も高い。再来が予想される不利な環境下で「全ての生徒に学びを届ける」ためには、自走できる生徒から順に自走させ、手厚い指導を必要とする生徒に十分なマンパワーを充てられるだけの余力を確保しておく方が合理的なのだ。

 

 つまり、教育改革と本質的なコロナ対策は同一なのだ。そして、それを実現できるかどうかは、学校・家庭・地域が「助けあい」の関係性を醸成できるか否かにかかっている。

  

■ 天国と地獄 ‥ どちらを招くかは大人しだい

 

 学校に対する家庭や地域の態度が「お任せ・押しつけ」であったならば、教師の「変わろう」「頑張ろう」という意欲はいよいよ枯渇する。となれば当然、教師は「今まで通り」を選ぶだろう。それが生徒に悪影響を及ぼすのは明らかだ。また、家庭や地域からの圧力に対しては、学習成果を授業時間数等の形式要件によって認定しようという免責願望が募るだろうし、外ヅラをよくする必要性から、生徒の支配強化‥教育虐待‥に走る危険性も高まるだろう。

 

 対照的に、「お互い助けあっていきましょう」となれば、教師は意欲が高まり、生徒は安心感が高まる。また、興味関心を起点に学びを深める機会も広がる。結果、生徒の到達度は向上し、「夏休みを短縮して授業時間を確保する」等の形式要件を持ち出す必要性は低下する。

 

 以上、教育改革を実現するためにも、コロナ第2波に備えるためにも、何より生徒が希望を胸に自分らしく学べるようにするためにも、共通して必要なのは「大人の助けあい」だといえる。その点で、コロナ第1波によって誰もが立場を越えて困難や話題を共有できる今は、助けあいの関係性を築く千載一遇のチャンスである。

 

 ここで、助けあいに至るハードルは、概して都会よりも地方の方が低い。つまり今は、都会から地方へと移住や定住を促す絶好のチャンスでもあるのだ。しかし、第2波が襲来すると、都市部からの来訪者に対する警戒感は再び強まり、せっかくのチャンスを逃してしまう。もしかすると、残された猶予は長くないかもしれない。

 

 「危機」=「危」+「機」である。「災い転じて福と成す」学校や地域が一つでも増えることを期待したい。