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学校が部活動を手放せない理由

 このほど「文部科学省は、休日に教員が部活動の指導に関わる必要がない仕組みを整備する改革案をまとめた」旨の報道があった。しかし、学校はそう簡単に部活動を手放せるものではない。むしろ、ここには教育改革が進まない構図が凝縮されているといってもよいほどなのだ。

部活動は生徒がエネルギーを発散するために不可欠な機会

 いつも指摘していることであるが、日本で学校制度が導入されたのは、工業社会に対応する必要性からだった。工業社会とは、規格品を大量生産することによって個人も会社も国も豊かになれる社会であり、人材も「規格品を大量生産」するのが合理的だ。個人の興味関心やこだわりは封印し、「嫌いなことでも努力して成し遂げる」「言われたことを速く正確に」遂行できる人材が重宝される。

 

 ここで、そうした学校生活があくまでも一部分であり、自分を解放できる時間や場所が保障されていたならば、嫌いなことにも耐えられるだろう。しかし、そうした時間や場所が奪われたならば、よほど強い意志の持ち主でない限り、学業に勤しめないばかりか、どこかで潰れてしまうのは、むしろ自然な成り行きであろう。

 

 本来、生徒が自由に過ごすことができ、有り余るエネルギーを発散できる場所の一つが地域だった。しかし、何の必要性からか、大人は勤務先と自宅を、生徒は学校と自宅を往復するだけの生活スタイルが浸透。もともと生徒に居場所を提供していた地域は、何か不都合があると学校に責任を転嫁するようになったことから、学校は生徒が思い通りに過ごせる時間や場所を提供する必要に迫られた。それが部活動に求められる重要な機能だった訳だ。

 

部活動は学校が生徒を繋ぎ止める装置でもある

 

 では、部活動の指導を教師が担う理由は何か。それは、もともと地域が担っていた教育的な機能を学校が肩代わりせざるをえなくなった事情もある。と当時に見逃せないのは、生徒を学校や学業に繋ぎ止めるべき必要性だ。欲求を満たす場を提供することで、苦痛を伴う勉学に引き留める機能を果たすようになった訳だ。

 

 ここに保護者の消費者意識が上乗せされたらどうなるか。生徒だけではなく、保護者を満足させるためにも、部活動は肥大化の一途をたどることになる。その延長線上にあるのが教師の多忙化であり、やがて授業の質を維持できなくなるのは必定なのだ。

 

 ここで確認しておくべきは、教師の本来業務は授業であり、部活動はそれに該当しない制度になっている点だ。部活動の肥大化が本来業務の機能不全を招来しているのだ。

部活動の放出は教師にとって恐怖でさえある

 学校が各教科で高度かつ抽象的な内容を扱っていける土台は、学びにつながる具体的な体験を生徒が生活の中で豊かに経験していること、すなわち、豊かな遊びを経験できていることである。

 

 そもそも、そうした経験を積む機会が家庭や地域から失われているために、学校は部活動という形で “遊び” の場を提供せざるを得なくなっている面がある。

 

 つまり、教師は授業の準備をできず、生徒は学びの土台が脆弱な者が多い状況にある。となれば、生徒が授業時間に喜びや充実感を覚えられようはずはない。にもかかわらず、時として学力向上だけは求められる‥。

 

 たしかに、部活動の負担は半端ない。しかし、意識の高い生徒が揃っているような学校を除いて、教師から部活動を取りあげることは、時に生徒を惹きつける手段を教師から奪うことを意味する。つまり、苦痛に耐えて授業を受ける理由が生徒から失われ、教室の空気は悪化。運が悪ければ、一部の授業で発生した綻びが全校に広がり、収拾がつかなくなる。

 

 既に、学習指導や進学指導の主導権を塾に奪われている部分もある。「この期に及んで部活動を放棄したら」‥それは一定数の教師にとって、もはや恐怖でしかないのだ。

外部に委ねるのは、もっと怖い

 あまり知られていないことではあるが、学校というところでは、生徒が成長を遂げられるよう、毎日毎日、気が遠くなるほど地道な積み上げが行われている。

 

 もし、世の人々が一定の見識をもち、教師とゴールとストーリーを共有し、生徒に対して協調的に関わっていけたなら、教師の苦労は何もないと言ってもよいほどだ。しかし、現実はほとんど真逆。それは善意なのかもしれないが、稚拙で逆効果の関わりをするために、何ヶ月にも及ぶ丁寧な積み重ねが一瞬にして吹き飛んでしまう苦渋を経験している。

 

 当然、教師は事態の収拾に追われ、マイナスからの出発を余儀なくされる。「生徒を校外に出してそんな目に遭うくらいなら、たとえ閉鎖的で硬直的だと言われようとも、学校の中に囲い込み、この手で育てた方がよい」‥そう考えるのは自然なことなのだ。

 

 実は、学校が地域連携に対して極めて慎重な背景には、こうした事情がある。校内に抱え込むメリットとデメリット、校外に送り出すメリットとデメリット、これらを教師なりに推測して総合的に評価し、意思決定を行っている面もあるのだ。

 

 そして、この構図は部活動においても成立する。世のスポーツ指導者には、立派な人物もいる半面、人間形成的な視点からみて独善的な価値観や稚拙な技術で生徒に関わるため、苦悩や仕事が増える場合が少なくないことを、教師は見聞きしているのだ。

 

 結果、過労死ラインを軽く超えるような毎日になったとしても、教師は部活動を手放せないことになる。

教師と外部指導者‥共学共創の関係性を築くほかない

 

 以上、部活動の問題は、決して「学校内部の問題」ではなく「地域の問題」でもあり、より本質的には「関係性の問題」である、ということができる。

 

 と同時に、この問題は「私たちの社会が『未来を創り出す機能』を喪失している一つの表れである」ということができる。

 

 

 そして、この機能を回復するためには、具体的には「教師と外部指導者」、一般的には「学校と地域」が、立場を越えて学びあい、生徒の未来を一緒につくっていく「共学共創」の関係性を築くほかに道はない。

 

 部活動の問題を窓口に、本質的な解決策を採用すべき重要性について、社会的な理解や対応が進むことを願ってやまない。